小説 | ナノ



▼前日

 疲れたと愚痴も零せないほどの激務が漸く落ち着き、同僚に気づかれないよう小さく息を吐いた。
 お疲れ様、と儀礼的に周りに声をかけてから職場の扉を開くと、目に差し込む西陽の眩しさに思わず顔をしかめてしまう。
 まだ明るい時間帯に帰れるという奇跡を噛み締めつつ、寝不足でもたつく足をのろのろと進めていき自宅の玄関を潜ると、逆に出勤の準備をしている一二三と目が合った。
 「おかえりー。明るい内に帰れるとか超珍しくね?」
 「だな…ただいま」
 パタパタと洗面所に向かう一二三に簡素に答え、靴を無造作に脱ぐ。そのままの流れで居間へ向かい、俺はソファへ吸い寄せられるように雪崩れ込んだ。
 きっと洗面所で髪を整えた一二三が戻ってきたら、眉を顰めながらだらしないと叱られるだろう。スーツが皺になるのも厭わず横になったソファから壁掛け時計を見上げる。
 彼女の仕事は終わっているだろうか。
 そう考えた瞬間、己の脳裏に優しい笑顔が浮かび、反射的に勢いよく姿勢を正した。
 しばらく忙しくなると言ってから何日経ったか、トーク画面を開いて確認すると会話は今朝の挨拶で途切れている。
 只の文字の羅列でも、彼女から送られてきたというだけで気分が高揚するのは何故だろう。
 でも、そろそろ、本人と会いたい。
 開いた画面を少し辿ってから俺の指はキーボードの上を滑る。
 これから暫くはきっと早く帰れるはずだから、いつ空いているか聞かなくては。
 出来ればすぐにでも会いたいが、自分の都合だけ押し付けるわけにはいかない。
 そう考えながら文字を打ち出そうとした瞬間、軽快な音を立てて今まで見ていた画面が出て迫り上がる。
 『今日もお疲れ様です。明日、お仕事終わりに少し会えませんか?』
 まるで自分の心を見透かしたような彼女からのメッセージに、慌てて辺りを見渡してしまう。もちろんいる訳は無い。
 というか画面を開きっぱなしだったからすぐに既読がついてしまった。ずっと見てたのかと気味悪がられたらどうしよう。
 すぐに『お疲れ様です。明日大丈夫です』とだけ打ち込んでもう一度ソファに倒れ込む。
 明日会えると思ったら、今までの疲労が何処かに飛んでいきそうな気がしてきた。
 「さっきからなに百面相してんの?」
 あとはジャケットを羽織るだけという状態で一二三が近づいてくる。
 「明日、彼女と会ってくる」
 「良かったじゃん。誕生日に会えて」
 「……………は?」
 誕生日?誰の?
 カレンダーを見て、今日が5月14日という事に初めて気がついた。ずっと仕事をしていた所為で日付感覚が狂っているようだ。
 「………俺の誕生日か」
 「自分の誕生日忘れるとか、独歩ちん働きすぎ!」
 全く否定出来ない。しかし俺だって好きで働いてる訳では無いのだが。
 何よりも、つまり、自分の誕生日に、自分の好きな人と会えるということだ。
 「俺、今なら課長に優しくできる気がする…」
 とりあえず、明日は何が何でも定時に上がらなければ。

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