小説 | ナノ



▼11.5

 パチパチと爆ぜる油の音と漂う香りに食欲が唆られる。くるくるとひっくり返せば、綺麗な焼き色のついたウィンナーがフライパン上を転がっていく。
 伊奘冉一二三は、朝食の用意をしていた。
 テーブルに焼けたパンと目玉焼き、そして今焼いたウィンナーを乗せる。飲み物は安売りしていたインスタントコーヒーだが、朝食には充分だろう。
 さて、と一二三は立ち上がり同居人が寝ている部屋へ無遠慮に立ち入った。
 雑然としている部屋は、確か先日片付けたばかりのはずだ。相変わらず綺麗にしがいの無い部屋である。その中で唯一無事と言えるデスクの上には、無機質なノートパソコンと未開封のペットボトル、そしておまけであろう小さなストラップがいくつか袋のまま置かれていた。
 一二三の店に最近来た女性客たちが人気だと言っていたそのキャラクターは、三十路近い男性が持つには少し可愛らしすぎる。先日の部屋掃除で一二三が捨てるか聞きながら持ち上げた際、慌てて取り上げる独歩の焦った顔と言ったら、思わず呆けてしまう程だった。
 思考が逸れる己に気がつき、一二三はベッドの上で寝息を立てている同居人へ視線を移す。
 「ほら!起きろ!どっぽぉ!今日はセンセーとバトルの打ち合わせだろ?!」
 「…はい、カフェラテで…いつもすみません」
 いつもなら眉間に皺を寄せながら職場の夢を見ているはずだが、同じように謝っているにも関わらず今は目元も頬も緩んでいる。
 きっと良い夢を見ているんだろう。
 ただ、このまま放置すると約束の時間に遅れてしまう。一二三は先ほどより叩く力を強めて数度独歩の名前を呼んだ。
 「独歩ちん!起きろってば」
 「…一二三うるさい」
 「煩くされたく無かったらすぐ起きればいいじゃん」
 もそもそと起き上がる独歩に呆れたようなため息を吐いたが、寝起きの彼に効果は無い。
 「コーヒー、あるのか」
 消えそうなほど小さな声で呟かれた言葉に、一二三は頷く。
 少しだけ嬉しそうな顔をした独歩が着替え始めたのを確認し、一二三は食事のために部屋を後にした。

 カチャカチャと食器と箸がぶつかる音だけが聞こえる居間で、二人の食事が進んでいく。
 独歩はコーヒーを飲んで、あからさまに不満そうな顔をした。表情から、期待外れだとでも言うようだ。只のインスタントコーヒーに何を期待したのか分からない。
 「苗字さんの淹れたコーヒーが…飲みたい」
 苗字さん、と呼ばれた人物は一二三と面識は無い。しかし、最近の独歩の会話の端々から、喫茶店で働いている女性で、コーヒーを淹れるのが上手な人と言うことは分かった。
 その店に行くために、今までギリギリまで家から出る事を拒んでいた彼が自ら早めに出勤している事も知っている。眠そうな顔をしながら家を出て行く姿に、初めは驚いた。
 しかし行こうと思えば毎日でも出来るそれは、一定の間隔で行われている。疑問に思った一二三が聞いてみると、独歩らしい回答が返ってきた。
 『俺みたいなのが毎日行ったら、苗字さんに気持ち悪いと思われるだろ』
 彼の自己評価の低さは留まるところを知らない。話を聞くに、苗字さんとやらはそれくらいで独歩を気味悪がるような人物には思えないが、一二三が言っても独歩は信じないだろう。
 それでも二週間に一度だったのが週に一度になり、現在は週三日は通っているのだから、徐々に間隔が短くなっていることに彼だって気づいているはずだ。
 ペットボトルのおまけだって、その女性が好きだと言っていたキャラクターだから買ってしまったらしく、渡すことも捨てることも出来ずに置いてある。あのままでは、おまけのキャンペーン期間が終わるまで増え続けそうだ。
 「店に行けば飲めるじゃん?」
 一二三もマグカップを持ち上げて飲み干すが、生憎女性の居る喫茶店に入る機会の無い自分には理解できない。
 「あ、その苗字ちゃんが今居ないんだっけ?」
 一二三が声を発した途端に独歩の手が止まる。
 「……ああ」
 いつも以上に下がった眉が、彼の心情を明らかに示していた。

 数日前、顔面蒼白になりながら帰宅してきた独歩を見たのは記憶に新しい。今にも崩れ落ちそうになっている彼を一二三が宥めすかして聞き取ったことは、喫茶店の店員が居なくなった、と言うことだけだった。
 一二三からすればコーヒーが飲めるならば店員が誰であろうと問題無いが、独歩は違う。
 一言も言わないが、彼女に好意を寄せているのは明らかで、長い付き合いの一二三でも、ここまで一人の女性に入れ込む独歩を見たのは初めてだった。
 「俺の、俺の出勤前の癒しが…消えた」
 その日はそのまま食事もせず、倒れこむように自室に入っていく独歩の後ろ姿を見ることしかできなかった。
 結局、独歩が話半分で聞いていたらしく、実際は一か月ほどで戻ってくるようだ。
 しかし、今まで週に数度会えていた人と全く会えなくなるのは事実で、日に日に独歩の顔に翳りが生じてきている。
 「別店舗ってシンジュクだろ?行けるじゃん」
 「…働いてる所分かったからって店に行ったりしたら、絶対苗字さんにストーカーだと思われる…嫌われたらどうするんだよ…」
 食べ終わった食器を持ち上げながら、独歩は瞼を微かに下ろす。一二三は否定するために口を開こうとが、話を聞く前に彼は台所へと姿を消してしまった。
そう言えば、今日の打ち合わせ場所と彼女の働いている店は近かった気がする。
 一二三は戻ってきた独歩を見て、念のためだとスーツのジャケットを手に持った。
 もし万が一、帰り道でその店の前に行ったとして、独歩は一二三を気遣って店内に入ろうとはしないだろう。どれだけ自分が会いたくても、傍に女性恐怖症の幼馴染がいるとなれば遠慮するのがこの男である。
ならば、予め先手を打っておこうではないか。

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