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ぼんやり歯を磨きながら朝のニュースを見る。別店舗の勤務も終わり、今日は晴れて元の店に戻れた名前の初出勤の日だ。
どれだけ早く起きても見れるニュースに、アナウンサーの方も頑張っているなと感心する。
『ではここで、昨夜決まったシンジュク代表についてのニュースです』
そう言えば、ディビジョンバトルが近日行われると中王区の友人が言っていた事を思い出した。ただこの地に居住しているだけの名前には深く関係するものでは無いが、地区の代表には興味がある。
歯ブラシを行儀悪く咥えながらテレビを見つめる名前は次の瞬間、全ての動きが止まった。
『シンジュク代表は麻天狼です!』
高らかな声と共に男性三人の映像が流れる。その誰もが、見覚えがあるように見えるのは、気のせいでは無いはずだ。
「…え」
どう見てもつい数週間前にお見かけした人達だ。特に、目元にクマのある赤い髪の人なんて先日も会った。
「独歩さん?!」
自分の口に定着させるまでに何度も部屋で一人呟いてた彼の名前は、すんなりと名前の口から零れ落ちる。
ついでに咥えていた歯ブラシまで滑り出てしまったことに気がついたのは、それが床に落ちてからだった。
店内に広がるコーヒーの香りで、いつもの日常に戻ってきたことを実感する。
別の店での勤務は悪いものでは無かったが、自分にはこの静かな空間でコーヒーを淹れながら仕事をする方が向いているらしい。
などと冷静なフリをしている名前の手元は先程から狂いっぱなしで、スプーンを床に落とすわカップとソーサーの柄を間違えるわで散々たるものだった。
まだ朝見たニュースに動揺を隠せない。
いっそ見間違いではないかと思っていたが、店に来た途端後輩から発せられた言葉にそんな考えは打ち消される。
彼女も同じニュースを見ていたらしい。
「先輩は何でそんなに疑ってるんですか?」
「いや、だって…独歩さん仕事あんなに忙しそうなのにバトルする暇あるのかなって」
彼にラップの技量を疑っているわけではなく、単純に体調が心配だ。
日々体力と精神力を削りながら仕事をしている様相の独歩に、追い打ちをかけるような話ではないか。精神干渉を伴う戦いになるばすである。彼に休息をと願っている名前にとって真逆の状態に、身体への負担を気にしてしまう。
まあ、こちらが心配してようが独歩には関係ないことだろう。
来店を知らせるドアの開閉に顔を向ければ、噂すればとでも言うように見慣れた赤い髪の毛が視界に入る。
「いらっしゃいませ」
名前の声に少し目を見開いた彼だったが、すぐに会釈されたことによって目元が見えなくなった。
「カフェラテください」
「かしこまりました」
目の前のカウンターに腰掛ける独歩は以前会った時と変わった様子はない。
話しかけたい気持ちはあるが、久しぶりのラテアートを失敗する訳にもいかないため無言で手元に集中する。
微かなオルゴールの音色しか聞こえない静かな空間に、カップへ注ぐコーヒーの音が響き渡った。
本来忙しい朝という時間帯だが、この店だけ時間が止まっているかのように緩やかな空気が漂っている。
久しぶりに作ったが、やはり二週間程度では勘は鈍らないらしい。以前と遜色なく出来たカフェラテに、名前は少し得意げな気分になって独歩の目の前へ差し出した。
「お待たせいたしました」
「…ありがとうございます」
相変わらず両手で大事そうにカップを持つ人だ。
中のラテアートを覗いて、少しだけ口角を上げる彼も久しく見ていなかったから懐かしい気持ちになる。
「あ、代表選出おめでとうございます」
思い出したように名前が呟くと、ぐっ、と喉から変な音を出した独歩が突然噎せた。
名前は慌てて布巾を持ち上げるが、どこにもコーヒーを零す事なく苦しそうに咳をしている彼を見て、急いでカウンターを出て背中を摩る。
「な、なんで…知って…」
漸く落ち着いた彼から手を離すと、たどたどしい疑問の声が聞こえた。
何故と聞かれても、あんなに大々的に発表されて知らない人が逆にいるんだろうか。
「ニュースで見ましたよ」
「あ、あぁ…なるほど」
そわそわと居心地が悪そうにカップへ視線を移す独歩に、名前は頷きながらカウンターへ戻り彼と対面する。
「応援してますので、頑張ってください!」
両拳を握りしめて力を入れる身振りをしながら声をかけると、独歩の眉が緩やかに下がる。
「はい…俺なんかが代表なんて、その、頼りないと思うんですけど…一二三も先生も強いので、えっと、俺も頑張ります」
顔を上げて話す彼は、話ぶりからも分かるように仲間のことをとても信頼しているんだろう。以前店に来た時の三人の様子を思い出して名前の頬も緩む。
「独歩さんが頼りないなんてことは無いと思いますが、お仕事も大変でしょうから体調だけは気をつけてくださいね」
「!………は、はい」
名前が発した言葉を聞いて何か気づいたように目を瞬かせた独歩は、数拍置いて控えめに頷いた。心なしか目元に朱が走っているように見える。
「あ、あの…」
口を開いた彼の声は、来店を知らせる扉の音でかき消されてしまった。
「いらっしゃいませ」
会話を途切れさせることを小声で謝ってから、名前は新たな客人へと声をかけた。
朝にしては珍しく客足が伸びて独歩の会計を後輩に任せてしまった。
先ほど話途中だったものを聞こうとしていたのだが、仕事中の身であるため致し方ない。
帰り際に小さく会釈した彼に合わせて笑顔で頭を下げることしか出来なかった。
勤務時間を過ぎ、名前が更衣室でエプロンを外した瞬間に携帯が震える。
狙ったかのようなタイミングで送られたメッセージは、親しい友人からだった。
『一二三くんのお祝い会するから泊めて!』
「んん?」
どういう事だろう。まさか我が家で酒盛りでもするつもりだろうか。
『泊まるのはいいけど、お祝い会って何?』
返信を打ってからすぐに既読となったそれに、友人はアプリを開きっぱなしにしているようだと予測した。
『一二三くんのお店でお祝い会するの!お金は私が持つから名前もおいで!』
案の定すぐに返ってきたメッセージを読んで驚く。
流石中王区勤務の女性は羽振りが良い。
名前は宿泊代にしても割高な提案に気後れしつつも、友人の誘いに乗ることにした。
どうやら開催は今週末らしい。スケジュールを確認すると、幸いにも翌日は休日だった。
『一二三くんに頼んで他のシンジュクディビジョンのメンバーにも声かけてもらってるからね!貸切!』
続けられた文字を追って思わず小さな悲鳴を漏らす。
ホストクラブの貸切って、一体いくらかかるんだ。相変わらずの行動力と予想外の規模の大きさに目眩がする。
「てゆうか、他のメンバーって」
どう考えても彼も来るだろう。今朝見た赤い髪の男性、観音坂独歩を思い浮かべて自然と携帯を握る手に力が入った。
時間などの詳細は追って連絡する、と可愛らしいスタンプと併せて送られてくるメッセージに短く了解の文字を送り返す。
この店にいるときより長く話せるかもしれないなんて淡い期待を抱き、心なしか浮足立ちながら名前は裏口の扉を開いた。
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