小説 | ナノ



▼13

 カラカラと使えない自転車をゆっくり手で押していく。深夜でも光るネオンと騒めく雑踏に視界が眩むシンジュクだが、大きな通りを外れた住宅街へと抜ければ、途端に夜の静寂が訪れた。
 名前達が歩くたびに、外れたチェーンの歪な音が鳴り続ける。
 「観音坂さん、わざわざすみません」
 「あ、いえ…こちらこそ、無理やり着いてきたみたいですみません…そもそも俺たちと会わなければ、苗字さんはもっと早く帰れたわけで…つまり、苗字さんの自転車が壊れたのも、帰りが遅くなったのも、全部俺の、俺のせい…」
 「観音坂さんのせいじゃないですよ!」
 自転車に関してはこちらが整備を怠った所為だ。むしろ漕いでいる途中で壊れていたら大怪我をしていたかもしれない。
 名前が必死に否定していると、観音坂の表情が少しだけ明るくなったように見えた。
 またも訪れる静けさに、名前の口が開きかけて閉じる。こういう時、するすると話題が提供できる人間になりたい。
 頭の中で会話をさがしていると、観音坂から会話が紡がれる。
 「そういえば…今日、大変そうでしたね」
 労わるような観音坂の言葉と視線が、疲れた名前の心に染み渡るようだ。
 「やっぱり金曜日の夜って混むんですよね!あの慌しい雰囲気は喫茶店とは全然違いますね」
 「人の出入りもそうですが、その、酔っ払いに絡まれてたみたいですし…」
 はて、と名前は今日の記憶を遡った。絡まれるのが日常茶飯事過ぎてどの事だか分からない。
 「よくあるんで大丈夫ですよ」
 「え…それは、あの、大丈夫では無いのでは…」
 慣れたと言外に言ったつもりだったが、却って心配させてしまった気がする。
 「まあ、あと二週間で喫茶店に戻りますし、もう少しの我慢ってやつですね」
 見聞を広げられればと働いてみたが、やはり自分にはいつもの喫茶店が性に合っているようだ。賑やかに働くのも悪くないが、あのサイフォンの音が淑やかに響く空間が恋しい。
 「まだ二週間も、あそこで働くんですね…」
 寂しげな色を宿して囁かれた言葉に、名前の心がちくちくと刺激される。彼も、自分と同じように会いたいと思ってくれていたのだろうか。そうだったら、こんなに嬉しい事はない。
 そこまで考えて、名前はゆっくりと口を開いた。
 「戻ったら、一番に観音坂さんのカフェラテ作りますね」
 今は後輩か店長が彼のコーヒーを淹れているんだろう。その事実に少しだけ焦燥感にも似た何かを感じながら、観音坂に向かって笑いかける。
 「…!それは、あの…楽しみに、してます」
 「あ、でも久しぶりに作るんで、変になっても笑わないでくださいね」
 控えめに目尻を下げる彼を見ながら、おどける様に片手を振った。
 「笑いません、絶対…作ってもらえるだけで、嬉しいので」
 普段より近い距離で話しているせいか、観音坂の言葉がいつもより真っ直ぐ名前の耳に届いてくる。囁くような喋り方で優しく落とされる声に、一瞬で幸せな気分になるのだから単純だ。
 「そんなこと言われたら張り切っちゃいますね!…あ、もしお時間あったら今の店にもまた来てください」
 そろそろ自分の家に近づいてきた。少しでも会える確率を上げられるように、一言付け加える。
 「え…いいんですか…俺、今日、本当に迷惑しかかけてなくて…二度と、行かない方がいいかと思って…でも、あの、苗字さんがいいなら…また、行きます」
 彼に迷惑をかけられた記憶はそれこそ無いのだが、どうやら来てくれるらしい。
 「はい。是非」
 そうこうしている間に自宅前の駐輪場に着いてしまった。今日ばかりは駅近の物件が憎い。
 「あ、ここです。今日は本当にありがとうございます」
 名前が自転車を停めてから観音坂へ向き直ってお辞儀をすると、慌てたように彼も頭を下げた。
 「こちらこそ、色々…すみません」
 「一二三さんにもよろしくお伝えください」
 言い終わった後に自転車の鍵を閉めていないことに気づいた名前は、鞄の中から鍵を探し始めた。こういう時に限って中々見つからないのは何でだろう。観音坂の帰りがこれ以上遅くなってしまうのは申し訳ない。
 鞄の奥底に眠っていた鍵を漸く見つけたと顔を上げると、名前の目の前になんとも言えないような表情の観音坂がいた。
 「なんで…」
 ぽつり、と呟かれた声は意識しなければ空気に溶けて消えてしまいそうな程小さい。
 「え、なんでしょう?」
 案の定鍵に集中していた名前には聞き取れず、聞き返したものの観音坂から返事が来なかった。
 口を開いては閉じるを数回繰り返しているところを見るに、言いたいけど言えないことがあるようだ。
 何か、失礼な事をしてしまっただろうか。
 「あの、観音坂さん?」
 そんなつもりは欠片もなかったが、不快にさせてしまったらどうしようと名前はもう一度声を掛ける。
 名前の声に意を決したように目を一度きつく閉じる彼の姿を見て、更に不安が煽られてしまう。徐々に開く口を見ながら、一言も逃すまいと全神経を耳に向けた。
 「…俺の、名前…知ってますか…!」
 「…え?」
 予想の斜め上から飛んできた言葉に、思わず聞き返してしまう。
 何て言った?名前?
 今さっきも彼の名前を呼んだ筈だが、一体どういう事だろう。
 「観音坂さん、ですよね?」
 「あ、はい…観音坂なんですけど、そうじゃなくて…いや、やっぱり何でもないです、忘れて…今俺が言ったこと、忘れてください」
 確認するように話しかけると、捲し立てるように彼の声が続いた。
 忘れて欲しいにしては引っかかるような物言いに、名前が首を傾げる。
 「そうだよな、俺なんかの名前なんて覚えてないよな…一二三は会ったばかりなのに覚えてもらって、呼んでもらって…いや、これも俺のせいか…存在感のない中年は記憶に留める価値ないもんな…全部、俺のせい、俺のせい…」
 口の中だけで喋っているような、聞き取りづらい声だった。
 それでもいくつかの単語を耳に入れて頭で考えた結果、名前に一つの可能性が浮かんでくる。
 勘違いかもしれないし、間違ってたら大変恥ずかしいが、試す価値はありそうだ。
 頭を抱えている観音坂がこれ以上ネガティヴにならないよう、名前は勢いよく息を吸い込んで声を上げる。
 「独歩さん」
 「…………は、い」
 名前が名前を呼んだ途端、スイッチが切れたおもちゃのように全ての動きを止めた観音坂が、控え目に返事をした。
 「観音坂独歩さんですよね。ちゃんと覚えてます」
 反応を見るに、名前の選択は間違っていなかったようだ。
 「そ、うですか…あの、えっと…宜しければ今後もそのように、呼んで頂けると…」
 先ほどよりは大きくなった観音坂の声は、名前に衝撃を与える。
 名前、呼んでもいいのか。
 突然の申し出に思考が着いていかないながら、何かを発言しなければと口が無意味に開閉を繰り返す。
そんな名前を見て、観音坂が視線を真下に下げた。
 「………ご迷惑ですよね…こんな、急に、すみません…じゃあ、俺はこれで…あの、失礼します」
 そう言って踵を返そうとする彼の袖口を、名前は咄嗟に掴んでしまう。驚いたように目を見開いている観音坂に向けて、何かを言わなければと喉から声を絞り出す。
 「いえ!全然迷惑とかではなく、えっと…う、嬉しいです!良ければ私も、な、名前で是非!」
 言ってから、脳が自分の発言を認識するまで数秒。そろそろと袖口から手を離す名前は、観音坂の目を見れない。
 そわそわと身体が揺れてしまうのを誤魔化すために、マンションへ入ろうと一歩踏み出した。
 「で、では今日は送っていただいてありがとうございました!独歩さん、おやすみなさい!」
 後ろへ振り返った名前は気恥ずかしさを振り払うように明るい声を出して、観音坂へ小さく手を振る。
 「!?お、おやすみなさい…名前、さん」
 軽く頭を下げてから元来た道を歩き出す彼の後ろ姿を、名前はぼんやりと見送った。
 曲がり角を曲がった彼の姿が見えなくなった途端、エレベーターに乗り込み自室へ急ぐ。
 高鳴る心臓を沈めるように胸に手を当てたが、気休めにもならない。
 名前は玄関を開け、靴を脱ぐ前にその場にしゃがみ込んでしまった。
 顔が、熱い。心臓はまだ早鐘のようになり続けているし、心なしか息が苦しい。
 たかが名前を呼ばれただけだ。他の人にだってよく呼ばれるじゃないか。
 ただ呼んでくれる人が違うだけで、こんなにも自分の心が浮き足立つなんて、知らなかった。

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