小説 | ナノ



▼11

 今日も名前は店外のボードに文字を書く。
 まだしばらく暑い日が続くけれどコーヒーはホットで飲む人が多いな、なんて思いながらサラサラとコーヒーカップの絵も添えた。
 ペンのキャップを閉めながら体を起こすと、視界の端に人影が見えたように思えて反射的に振り向く。
 この時間に来る人なんて、名前が知っているのは1人だけだ。
 「観音坂さん、おはようございます」
 「おはようございます…風邪、治ったんですね」
 安心したように呟かれる言葉に、名前は笑顔で返す。
 「はい!先日はご迷惑をおかけしました」
 本当に、多大なる迷惑をかけた先日の出来事を思い出して、名前は一度深く頭を下げた。
 一礼の後顔を上げると、眉を頼りなさげに下げる観音坂と目が合う。そのまま扉を開き、彼を店内へ促すと同時に自分も店へと入った。
 結局数日寝込むことになってしまった名前に店長は休みを多めに取らせてくれたため、もう体調は万全である。
 カウンターに座る観音坂にいつもと違う雰囲気を感じて、名前は少し首を傾げた。
 心なしか、いつもより纏う空気が柔らかい。来店時はほぼ毎回淀んだ目で扉を潜る彼だが、今日はそうではないようだ。
 「今日は、何か良いことあるんですか?」
 カップをテーブルに置きながら、名前は世間話程度に話しかける。こちらの言葉に軽く目を見張った観音坂は、すぐ緩やかに目尻を下げた。
 「はい…今日は、これから帰って…明日も休みなんです」
 「お休みですか!いいですねー…ん?」
 これから帰りと言うことは、今まで会社に居たのか。名前の口から思わず小さな悲鳴が漏れる。
 嬉しそうにしている観音坂には申し訳ないが、相変わらずブラックなお勤め先に怯えが止まらない。
 「あの、私が言うのもなんですけど、観音坂さんも体調には気をつけてくださいね」
 「?はい」
 よく分かってなさそうな顔で頷く観音坂に、社畜の二文字が名前の頭の中を過ぎった。
 今日も猫の模様を描いたカフェラテを大事そうに飲む彼の姿を、労りの目線で見てしまう。
 お店に来てくれるのは名前としても嬉しいが、出来るならば今ここに柔らかい布団を用意して寝かせて差し上げたいくらい、彼には休んで欲しい。
 空になったコーヒーカップをそっと置いたのを視界に捉え、レジに向かった。
 せめて気休めくらいにはなるだろうと、名前はカウンターの下に置いてあるお菓子に手を伸ばす。会計を終わらせた瞬間に観音坂の手にそれを乗せると、彼は目を瞬かせて名前を見つめた。
 「いつもお疲れ様です。これ、チョコですが良かったらどうぞ」
 「え、あ…すみません。お気を使わせて…」
 恐縮したように頭を下げる彼の後頭部を眺め、否定するように手を振る。
 「大したものじゃないので!良い休日をお過ごしください」
 軽く会釈をした名前に合わせて顔を上げた観音坂の口角が緩く持ち上がるが、眉は下がったままだ。おそらく、笑顔を作ろうとしたのだろう。
 「…はい」
 下がった眉のまま頷いた彼が扉を潜るのを見届けてから、名前はカウンターへ戻った。
 「先輩、言わなくて良かったんですか」
 名前がサイフォンに手をかけた途端、カップを拭いている後輩から淡々と声を掛けられる。
 コーヒーを注ごうと持ち上げた手を止め、気まずそうに首を摩る名前に後輩の呆れたような視線が突き刺さった。
 「いや、だって疲れてそうだったし….第一私が暫く別店舗で働くのって、観音坂さんにとっては関係無くない?」
 そう、明日からなんと別店舗での勤務が決まっていた。どうやら系列店が新しい店舗を構えるらしく、オープニングスタッフとして一名駆り出すよう店長会議で決まったらしい。
 名前が休んでいる間に決まっていたそれは、あれよあれよと言う間に己に白羽の矢が立てられたようだ。病み上がりになんと言う無体。
 説明された当初は異議ありと店長を睨みつけたが、ずっと同じ所で働いて数年、新しい経験も必要かと思い直して承諾した。
 オープニングスタッフという名目なので期間は一ヶ月とそう長くない。その間の補填は店長がやるらしい。
 あの人朝弱かった気がするが、大丈夫なのだろうか。
 自分より店長の心配をしてしまう名前に、後輩が小さくため息を吐く。
 「まあ、先輩はそういう人ですよね」
 「おっとそれは馬鹿にしてるな?」
 拭き終わったカップを丁寧に戻す後輩を横目に、名前もサイフォンに手をかけた。
 「先輩が居なくなるって事は、会えなくなるって事ですからね」
 真っ直ぐこちらを見てくる彼女に、何を当たり前のことを言っているのかと首を傾げたら、またため息を零された。


 そう会話をしてから二週間、名前は今、後輩の言葉を噛みしめている。
 「そりゃあ、会える訳ないよね」
 人の居なくなったテーブルを拭きながら一人呟く。当たり前だと、過去の自分が脳内で笑った。
 ここの店はシンジュクの中心地にあるせいか、夜遅くまでの営業をメインとしている。
 名前は今までの勤務形態の違いに驚いたが、一週間もすれば慣れるもので何ら問題なく働いていた。
 ただ一つ、観音坂に会えないことを除いては。
 「…会いたい」
 持ってた台拭きを握りしめた名前がぽつりと呟いた言葉は、誰に聞かれるでもなく空気に溶ける。
 十分程度の朝の会話でも、自分は満たされていたのか。観音坂だって毎日来ていたわけではないが、それでも週に数回は顔を合わせていた。
 それが全く無くなるとこうも味気なくなるのかと、名前は食器を手に持ち厨房へと歩き出す。
 ぼんやりしている場合ではない。
 本日は金曜日、週の中でも来客が一番多い日だ。気合いを入れ直すように、大きく深呼吸をしてからホールへ向かう。
 名前が一歩踏み出した途端、扉のベルが軽やかな音を立てて来客を知らせる。
 「!いらっしゃいま…せ」
 作った笑顔が、驚きに塗りつぶされて言葉も途切れた。
 名前の反応に、所在無さげに立っていた彼が青い顔をして踵を返そうとする。
 「えっ」
 名前が呼び止めようと手を伸ばす前に、後ろから現れた人が彼の退路を絶った。
 「今から三人、入れるかな?」
 背後にミラーボールでもあるのかと言うほど煌びやかな男性が名前に声をかける。我に帰り席に案内する為に空席を確認すると、丁度四人席が空いていた。
 「はい、大丈夫です。こちらへどうぞ!」
 何処かで見たような気がする男性だと思ったが、それよりも未だ若干顔色が悪い観音坂が気になって仕方がない。名前の視界から逃れようとしているのか、最後に入ってきた男性の後ろに隠れるような動きで離れていってしまった。
 三人、と言うことはこの男性も一緒か。
 視線を動かすも名前が想定してた位置に見えるのは胸元だけで、首を辿るように上を見上げて漸く顔に到達した。
 でかい。あまりジロジロ見るのは失礼だからすぐ向き直ったが、衝撃を覚える高身長だ。観音坂が見事に隠れて見えなくなってしまったのも頷ける。
 空席に案内して飲み物を聞く為にボールペンとメモ帳を取り出すと、二人分の注文がすぐに飛んできた。名前と急いでメモを取り顔を上げると、視線が机に固定されている観音坂が見える。
 「観音坂さんはどうされます?」
 いたって普通の声で話しかけたと思うが、名前の声を聞いた瞬間にびくりと肩を震わせてこちらを見る彼にとってどう聞こえたのか、想像が出来ない。
 「す、すみません!」
 久しぶりに聞いた声は、注文ではなく謝罪の言葉だった。
 何故、と名前が思う間も無く観音坂の口から言葉が流れ出てくる。
 「俺、こんな、あの…す、ストーカーみたいな…別の所で働いてるって言うのは聞いたんですけど、あ、ここの名前も…聞いてたんですが、たまたま近くにきたので思わず…俺、すみません、別の勤務先まで追いかけてきたみたいで、気持ち悪いですよね…これだから、俺は…」
 ボールペンを持つ手も空中で止め、名前は観音坂の放った言葉の意味を考える。
 おそらく、いつもの様にコーヒーを飲みにやってきたであろう彼に後輩がここの場所を伝え、近くまで来たからわざわざ寄ってくれたのだろう。
 つまり、会いに来てくれたという事か。
 「…それは、その、ありがとうございます」
 この場合何と言うのが正しいのか、名前には分からない。こみ上げる嬉しさを業務中だと諌める自分も居て、結局にやける口元を無理やり引き締めた微妙な表情で答えた。
 「気持ち悪いとか、全然そんな事ないです…えっと、お越しいただきありがとうございます」
 なぜか二度もお礼を述べてしまった。手前に座る男性二人の生暖かいような視線が居た堪れない。
 「で、あの!ご注文は?」
 「え、あ、はい…!ビール、で」
 かしこまりました、と言いながら空気を変えるように元気な声を出す名前に、背の高い男性が一層笑みを深めたような気がした。

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