小説 | ナノ



▼10

 カウンターに座る彼の淀んだ空気に心配になりながらも、名前はコーヒーを注ぐ手を止めない。
 一週間ぶりに見た観音坂は、見るからに荒んでいた。
 来店した時からふらふらとした足取りだった彼が、消え入りそうな声で呟いた注文をしてきたため名前は言われた通りに黙々とこなす。ちらちらと観音坂の様子を伺う名前に釣られて後輩も視線を動かした。
 少し驚かれたように見開かれた後輩の目にも、彼の様子が普段より酷いように見えるのだろう。
 少しでも元気になってもらえるよう、可愛らしい猫の模様をカップの中に描き入れる。
 「お待たせしました」
 そっと差し出したコーヒーカップをぼんやり見つめる観音坂に、できるなら今すぐ帰って寝ていただきたいがおそらく無理な話だろう。
 「ねこ…かわいい、ですね」
 ぽつりと呟かれた言葉に名前は思わず得意げに胸を反らす。
 「前は百歩譲って猫の亡霊でしたからね!今回はちゃんと猫です」
 一度見事に失敗した猫の様な何かの模様を前に、観音坂が肩を震わせるほど笑いを堪えていたのは絶対に忘れない。
 あの後、後輩に教えてもらいつつ猛特訓をした結果、自分でも可愛らしいと思えるくらいの猫を描けるようになった。
 「亡霊…」
 思い出したように呟き、口を隠すよう手で覆う彼も脳内に過去の光景が映し出されているのだろう。
 手の隙間から見える微かに上がった口角に喜べばいいのか凹めばいいのか、複雑だ。
 「これ…写真撮っても、いいですか?」
 下ろした手で携帯を持ちおずおずと聞いてくる観音坂に、名前は軽く頷いた。
 「あ、はい。自信作なので、どうぞ!」
 そんなに猫がお気に召したのだったら、今後のラテアートは猫メインで練習しよう。
 カシャリ、と控えめなシャッター音が静かな店内に響いた。
 カフェラテをゆっくり飲んでから緩慢な動きで会計をする彼に、名前のお釣りを渡す手が重なる。
 「今日も一日、お仕事頑張ってください」
 すでに頑張っているであろう観音坂にかける言葉として正しくないかもしれないが、名前に言えることはこれくらいしか無かった。
 自分の無力さを実感する。
 「え、あ、はい…ありがとう、ございます」
 名前が手を離すと同時に、小さな声が耳に入ってきた。音の元へと目をやると、来店時より多少顔色の良くなった観音坂が控えめに名前と視線を合わせてくる。
 「苗字さんも、その…喉、気をつけてください」
 言うや否やお辞儀をして立ち去ってしまう観音坂に、返事をする暇もなかった。
 実は朝から喉に違和感があったが、乾燥のせいだとそのまま仕事をしている。自分ではいつも通りの声を出しているつもりだ。
 「ねえ、私の声変?」
 振り返って後輩を見つめると、首を振ってから口を開いた。
 「いつも通りに聞こえます」
 「…そっか」
 観音坂と話すときに咳をした記憶もない。
 どうして気づかれたのか分からないまま、置いてあるコーヒーカップを手に取った。


 次の日目覚めた瞬間、喉に強烈な違和感を覚える。
 「…あ゛ぁ゛」
 声を出そうとして名前の口から出たのは嗄れた老婆のような音。身体全体がじんわりと熱を帯びているような感覚と痛む関節に、思わず眉をしかめる。
 これは確実に、風邪を引いてしまった。
 急いで後輩に連絡しようと携帯を取り出したところで、今日は休みだったと気づく。
 運が良いのか悪いのか分からないが、早く治さなければ、と重い腰を起こして緩慢な動きで鞄を手に取る。
 薬も無ければ食べ物も無いこの家に、普段からの備えって大事なんだと今更実感した。
 こういう時はすぐ病院に行くに限る。名前は診察券と保険証を確認し、財布にねじ込んだ。
 体温計で数値を見てしまうとめげそうなので敢えてそのまま病院へ向かうことにする。
 運良く残っていたマスクを耳にかけ、自宅の鍵を閉めた。

 いつもは歩いて数分のなんて事はない道のりのはずなのに、今日は何だか遠かった。
 受付を済ませた後、名前は倒れるように椅子に腰掛ける。
 渡された体温計を脇に挟みながら、流れるテレビの映像をただ目に映していく。
 ピピピ、と機械音が聞こえたと思って体温計を取り出すと、ここしばらく出したことの無いような高熱が数値となって現れた。
 「う゛わ゛」
 驚く声も喉に引っかかり、その衝撃で咳き込んでしまう。
 名前は体温計と一緒に渡されたカルテに現在の症状と計った体温を記載し、受付にいる男性に差し出した。
 「おかけになってお待ちください」
 柔らかい笑顔で促されて、再度椅子に座る名前の目の前を、見覚えのある赤い髪が通り過ぎた。
 「が…ん゛」
 観音坂さん、と呼びかけようとした声は正しい名前を呼ぶ前に途切れた。
 名前の声に気づかなかった観音坂は、低姿勢で受付の男性に話しかけている。
 おそらく、営業か何かだろう。仕事の邪魔をしてはいけない。
 この声で観音坂と普通に話せるとは思えないし、何より今自分がすっぴんであるという事を思い出した。絶対に気づかれたくない。
 名前はそっと隅に移動し、自分の名前が呼ばれるのを待った。
 程なく看護師に呼ばれて診察室に入ると、一通りの問診を受ける。
 痛む喉で話すのは辛かったが、出来る限り小声で喋ったところ、案の定風邪という診断を下された。
 医者に一礼し診察室を出た瞬間、見慣れた青い瞳と視線がかち合う。
 いや、何このタイミング。全く求めてない。
 待て待て今私はマスクをしていて顔がほとんど見えていないし、普段とは全く違う格好をしている。自分だと気づかれない可能性も高いのでは。
 何事も無かったかのように軽く会釈をして通り過ぎようとした名前に、無情な声が降り注ぐ。
 「…え、あの……苗字さん、ですよね」
 「ぐっ…」
 バレてる。完膚なきまでにバレている。
 観音坂の不安そうな顔と、おそらく引き止めようとしたであろう中途半端に挙げられている手を見て、無言で頷いた。
 「体調、悪いんですか…って病院に来てるから当たり前だよな。えっと…大丈夫ですか?」
 通行の邪魔にならないよう端に寄る観音坂に合わせて、名前も身体をずらす。
 肯定の意味を込めて大きく頷く名前を見て、彼は眉を下げて首を傾げた。
 「大丈夫そうに、見えないんですが」
 今度は首を横に大きく振ってみたが、あまりに頭を動かしすぎたのか、自分の視界が歪んで足元がふらつく。熱のせいか上手く力が入らず、身体を支える様に動かした足が全く意味を成さない。
 むしろ変に力が抜けてしまい、背中から倒れこみそうになった所で慌てた観音坂に手を引かれ、転倒することは防がれた。
 「ず、ずみま゛ぜ…」
 「とりあえず座った方、が」
 近い、それはもう、近い。
 緑色のネクタイとストライプ柄のシャツがこれでもかと言うほど名前の眼前に広がっている。顔を上げれば、こちらを見下ろす観音坂の青色の瞳が目一杯広げられていた。
 倒れないようにと自分の方に名前を引いた観音坂は全く悪くない。そのまま胸元に飛び込んでしまった力の入らない己の身体が悪い。
 そして、この至近距離で化粧もしていないボロボロの顔を見られるなんて、最早死んだも同然である。誰か私の墓穴を用意して欲しい。
 名前は上げた顔をすぐさま下ろし、これ以上見られないように手で目元を覆った。
 「ま゛ごどに…申じ訳、ございま゛ぜん」
 痛む喉を無理やりこじ開けて出した謝罪の言葉はちゃんと届いただろうか。
 観音坂に肩を優しく掴まれて、倒れこむように寄り添っていた身体をそっと離される。
 覆った手を少しずらして見上げると、肩を掴んだまま明後日の方を見る彼の横顔があった。
 「こちらこそ、大変、失礼致しました…」
 赤い髪色の間から、薄く色づいた頬が見えるような気がする。
 なんだかドラマで見るようなシーンだ、と熱を持ったままの頭で名前は観音坂を見上げ続けた。
 お互い声を発するタイミングを失ったこの気まずい静寂を破ったのは、名前でも観音坂でもなく、受付の男性だった。
 「苗字さーん」
 間延びした声に、名前は自分が会計を済ませていないことを思い出す。
 観音坂も気がついたのか、肩から手を離し深々とお辞儀をしてきた。
 「さっきは、本当にすみません…あの、お大事にしてください」
 同じように名前も頭を下げ言葉を発しようとしたが、喉がとうとう限界を迎えたのか、空気の抜けるような音しか出せなくなっている。
 ひとまず何度も会釈してから会計に向かうことにした。
 名前が会計をしている間に観音坂も医者に呼ばれたようで、薬を貰おうと病院から出る頃には、彼の姿は見えなくなっていた。

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