小説 | ナノ



▼9

 「今日はありがとうございました」
 満足の行くまで食べ続けた名前は、食後の紅茶を飲み込んでから観音坂に向かって軽く頭を下げた。
 「あ、いえ…こちらこそ、ありがとうございました」
 観音坂の小さな声を聞いた後、再度カップを手に取る。最後に無理やり食べたワッフルが案外胃にきており、多分すぐに動くことは出来ないだろう。
 目の前の彼の様子を伺うと、同じようにゆっくりした動作でカップを手にとっている様子が目に入った。おそらく、考えていることは同じである。
 「若い時はもっと食べれたはずなんですけどね…」
 はは、と自嘲気味に名前が笑うと、観音坂は驚いた様に目を瞬かせた後、眉を下げて口を開いた。
 「俺も、そうですね…学生の頃は…」
 2人で軽く遠くを見つめてしまう。
 学生、もう何年前の話だろう。
 「わかります」
 カップの中が空になったところで、どちらともなく立ち上がり会計へ向かおうとカバンを肩にかける。
 そのまま食事券を店員に渡して外へ出ると、未だ太陽は地上へ明るく降り注いでいた。
 そして、気づく。
 この後一体どうすればいいのか。
 いつものお礼という名目で誘った食事だが、まだ明るい時間帯、せっかくだからもう少し何処かに寄ろうかなんて考えがよぎる。
 ここで友達であったならばカラオケやらウィンドウショッピングやらに誘えるが、相手は観音坂である。さっき食事をした手前カフェに行くこともできない。
 詰んだ。名前の経験値では他に選択肢が思い浮かばなかった。
 残念だが、仕方ない。今日は解散かと何となく駅方面へ足を伸ばす。
 「…そういえば」
 ぽつり、と観音坂の声が耳に落とされて彼を見上げた。思わず声を出してしまったとでも言うような顔で口を覆う観音坂に、名前は先を促すように首を傾げる。
 「…その、苗字さん、は…えっと、俺と…来て良かったんですか」
 「?何でですか?」
 こちらが誘ったのだから、良いに決まっている。
 「だって…本当は、彼氏とか、友達とかと来たかったんじゃないですか?…俺、何も考えてなかったけど…わざわざお礼なんて、気を使わせて…」
 見上げる彼と視線は合わない。名前と反対側を見下ろすように下げられた顔に、言葉の意味を噛み砕こうと頭の中で繰り返す。
 気を使ったつもりは全く無いが、どうして彼がそんな発想に至ったのか分からない。そして彼氏はいない。
 「あの食事券貰った時に観音坂さんが浮かんだんで、気を使った訳では…友人とは中王区でよく会うのでシンジュクで遊ぶって中々無いんですよね。あと彼氏はいないですね」
 「…彼氏、いないんですか?」
 最後の言葉だけ早口かつ小声で言ったつもりだったが、しっかり聞き取られていたらしい。
 先ほどとは反対に、名前は観音坂の視線から逃れるように顔を背けた。
 何故そんな意外そうな顔でこちらを見てくるのか。
 「彼氏いたら、流石に男性と2人で食事は行かないですよー!」
 意味もなく掌を左右に振りつつ、勢いで会話を終わらせようと大きな声を出してみる。
 「…ああ、そうですよね…そう、ですか」
 何かを噛みしめるような観音坂の声に、顔を逸らしていた名前もそろそろと視線を戻した。
 名前から見える観音坂の口元が一瞬だけ上がったように見えたが、すぐに元に戻ってしまった。
 いや、今の速さではこちらの見間違いの可能性が高い。
 そうこうしている間に駅は目前へと迫ってきている。ここでお別れかと名前が観音坂へ挨拶をしようとした瞬間、彼の後ろにあるポスターが視界に映る。
 「え?!」
 でかでかと貼られたポスターに描かれたキャラクターを食い入るように見つめて、今日一番の大声を上げてしまう。
 「えっ…ど、どうしました?」
 わたわたと自分の周りを確認する観音坂に、慌てて否定するように手を上げた。
 「あっごめんなさい!観音坂さんの後ろのポスターが…えっ、今日からだ」
 自分の好きなキャラクターのポップストアが、今日から開かれているらしい。可愛らしい絵柄のそれらが、名前を誘うように描かれている。
 「知らなかった…わ、可愛い」
 「あれですか?」
 名前の視線を追いかけるように後ろを向いた彼が、そっとポスターを指差した。
 何度も激しく頷く名前に、そっと静かな声が落とされる。
 「あの…行きましょう、か」
 「行きます!…あ、でも観音坂さん興味無いですよね?駅も近いですし、ここで今日はお開きで…」
 そう言いながら名前の足はお店に向かおうとしている。このキャラクター、基本的女子供向けというか、大変可愛らしいデザインのため観音坂に付き合わせるのも申し訳ない。
 「…そうですよね、俺みたいな中年男性がこんな可愛らしい所…苗字さんの隣に居ても明らかに不自然だよな」
 何やら思ってもみない方向で悲観的になっている。
 「や、観音坂さんがどうこうっていうか、完全に私の趣味なので観音坂さん行っても楽しく無いんじゃないかなって、思ったんですが…よかったら一緒にぜひ」
 ここから歩いて数分のビル内に開設されているらしいです、と付け加えると観音坂が小さく頷いた。
 なんと、付いてきてくれるらしい。

 店内に所狭しと置かれているグッズ達に、名前のテンションは上がる一方である。
 「もう駄目、全部可愛い」
 一つ一つゆっくり見て回る名前の後ろを付いて歩く観音坂はまるで雛鳥の様だ。
 マグカップを持ち上げては下ろし、ブランケットを広げては畳む。完全に名前は浮かれていた。
 「ボールペンなら職場でも使えるなあ」
 数種類のボールペンを両手に持ち、悩むような声を上げる。
 そこで漸く、自分が1人で来ていないことを思い出した。勢い良く名前が振り返ると、名前の持っているボールペンを無言で眺めている観音坂がいる。
 「ご、ごめんなさい観音坂さん!あの、飽きますよね」
 「…え?あ、いえ。楽しい、です」
 本当だろうか。
 こちらを向いて話す彼は嘘をついている様には見えない。自分で言うのも何だがどこが楽しいんだろう。いや、こちらは全力で楽しいが、彼の楽しいポイントが分からない。
 「そうですか?なら、良いんですが…あ、観音坂さんならボールペンどれにします?」
 名前が手に持ったままのボールペンを差し出すと、考えるように観音坂が顎に手を当てる。
 「どれも可愛いんですけど、流石にボールペンこんなに要らないんで一本だけ買おうと思うんですよ」
 「…俺が選ぶんですか?」
 不安そうな声に、名前は軽く頷きながら再度口を開いた。
 「私どれも好きで選べないんです。何ならこう、まとめるので適当に一本引いてください」
 両手でボールペンを纏めて持つと、恐る恐る観音坂の手が伸びてくる。あまりに慎重なので、少し笑ってしまった。
 「あの、軽い気持ちで取っちゃってください」
 「いや、でも…苗字さんが今後使う物なので…じゃあ、これを」
 観音坂が引いたのは、綺麗な青色のボールペンだった。キャラクターもよく見えるデザインでとても可愛らしい。
 「あ!いいですね!それ買います」
 残りを丁寧に戻して、空いた手を観音坂に差し出す名前に彼が安心したように小さく息を吐いた。
 「…よかった」
 「ありがとうございます!全部可愛いから迷いますね」
 買ってこようと観音坂へ一声かけてからレジへ向かう。
 袋を手にして戻ると、ぬいぐるみの山をじっと見つめる赤い髪が見えた。
 「ぬいぐるみも可愛いですよね。これとか、私の家にありますよ」
 以前中王区で買ったぬいぐるみを、まさかここシンジュクでも見れるとは思ってなかった。
 「そうなんですか…」
 「この歳でぬいぐるみ買うのってどうかと思ったんですけどね。どうしても欲しくて」
 ソファに鎮座している我が家のぬいぐるみを思い浮かべて苦笑いする。欲しかったのだから仕方ない。座りながら抱くと案外納まりがいいのだ。
 「…可愛いですね」
 優しい声が聞こえてきたのでふと隣を見ると、丁度こちらを見た観音坂と目が合う。
 そんな台詞を言った後に見ないでほしい。自分に言われていると錯覚してしまうではないか。
 「…ですよね!私のお気に入りはこの子です!」
 勘違いするな。今のはこのぬいぐるみ達に言った物であって、私に向けられたものではない。
 上がった心拍数を誤魔化すように、ぬいぐるみを持ち上げた。

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