小説 | ナノ



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 勢いで約束を取り付けたあの日、一緒に行くなら待ち合わせが必要だと連絡先も交換した自分の行動力を褒めたい。あれだけで2日分くらいの精神力を使った気がする。
 そんな事を考えながら、名前はクローゼットの前で仁王立ちをしていた。
 相変わらず店でカフェラテを頼む観音坂と軽く談笑しながら数日を過ごしたと思ったら、もう明日が約束の日付だった。
 「何を…着ていけばいい…」
 普段職場と家の往復しかしていないためか、服装に気を使ったことはあまりない。名前はクローゼットを開けて中を覗く。
 仕事用の服を掻き分けて目的のスペースを見つけると、手当たり次第引っ張り出してみた。
 友人と出かける時に着ていた服たちが、名前の足元に散らばっていく。
 「スカート…いや、パンツ?…わからん」
 そもそもお礼と言う名目で出かけるのだ。気合の入りすぎた服装で行くと観音坂に引かれる可能性もある。適度におしゃれで、いい感じの装いをしなければならない。
 「難易度たっか」
 とりあえず広げた服たちを、見やすいように並べていく。
 「ランチビュッフェだからなー…沢山食べたい」
 食べ過ぎても見た目に響かない、も条件に追加された。ここにきて食欲を優先する自分に呆れるが、なんせ食べ放題だ。好きなだけ食べても罪悪感が無い。
 名前は細身の服を軒並み隅に追いやった。残ったものを見て、1つずつ体に当てていく。
 「これでいいや」
 そもそも自分にそんな高度なコーディネート能力なんて無い。とりあえず周囲から浮かなくて、まあ見れる格好になっていれば、多分大丈夫だろう。
 以前友人から褒められたワンピースを手に取り、まじまじと見つめる。
 今の季節から外れた色味でもないし、ワンピースならある程度食べても体型に響きにくい上に締め付けられない。完璧だ。
 選んだ服を丁寧にハンガーに掛けて準備しておき、目覚ましをかけて布団に入る。
 片付けは、明日帰ってからやります。
 名前は明日の自分に全てを託し、ゆっくりと目を瞑った。


 頭の上で電子音が耳をつんざくように鳴り響く。
寝ぼけた頭で音を止め、もう一度寝そうになった自分の体を無理やり持ち上げた。
 危ない。二度寝したら確実に遅刻してしまう。
 欠伸を噛み殺しながら、名前は風呂場へと足を向ける。時間に余裕をもって目覚ましをかけたことだし、しっかりと身なりを整えてから家を出たいところだ。
 部屋着を脱いで適当に洗濯籠に放り込む。いつもは手早く済ませるだけの化粧も、少しだけ頑張ろう。
 などと考えて身支度をしている間に、待ち合わせ時間が迫ってきていた。
 「えっ嘘?!何で!」
 時空が歪んでいるとしか考えられない。いつもよりほんのちょっと準備に時間をかけただけだと思っていたが、名前の予想よりもたついていたらしい。
 最後に腕時計を付けて、慌てて玄関へ向かう。
 本当は約束の10分前には着いていたかったが、到着時間はギリギリ5分前といったところか。
 遅刻する事だけは避けたい。
 家を出る前にトークアプリを確認したが、観音坂からの連絡は無かった。
 『今から家を出ます!』
 念のため、自分のメッセージを打ち込んでから玄関の扉を開けた。

 気持ち早足で名前が待ち合わせ場所に着くと、休日の昼間というタイミングのせいか混み合っていて観音坂を探せない。
 一度人の邪魔にならないよう端に寄ってから、トークアプリを開いた。
 『畏まりました。お待ちしています』
 「お、おお…私は営業先か何かか…」
 観音坂からの業務的なメッセージに、思わず名前の心の声が漏れる。
 しかし、お待ちしていますということは、連絡した時点でこの場所に着いていた事になる。
 待たせてしまった。
 一気に申し訳なさが募り、急いで返事を打ち出す。
 『すみません。今着きました!どこにいますか?』
 周りにはそれらしき人物がいないから、きっと少し離れた所にいるはずだ。
 すぐに既読になった後返事がきて、安堵の溜息を吐く。
 『歩道橋のベンチに座っています。苗字さんは?』
 『わかりました!お互い動いて会えなくなったら困るんで、私がそっちに行きますね』
 人にぶつからない様避けながら、名前は観音坂の居場所へ進んだ。歩道橋へ上がると、ベンチに腰掛ける赤い髪の毛が見える。
 「観音坂さん!お待たせしてすみません!」
 駆け寄って謝罪すると、手元の携帯を見ていた観音坂の頭が上がっていくのと同時に、静かな声が響いてきた。
 「いえ、俺もさっき来たばかりなので、だいじょ…」
 言葉が不自然に途切れたことに違和感を感じた名前が軽く下げていた顔を上げる。
 ばちり、と音が鳴ったと錯覚するほど目が合った瞬間、観音坂が思い切り顔を逸らした。
 「えっ、あの、観音坂さん?怒ってます?本当にごめんなさい」
 ベンチに腰掛ける観音坂に更に近づくように一歩踏み出した名前を遮るように、彼が立ち上がった。
 「な、何でもないです…怒ってもいないので、大丈夫です。あの、いつもと違うので、驚いたと言うか…その」
 いまいち要領を得ない観音坂の言葉に頭を捻る。
 いつもと違うって、そりゃあ喫茶店で着ているエプロンを常用していたら大分不審者ではないか。
 もしかして、似合わないか。もしくは普段は適当な服にエプロンを重ねているから、やけに気合入れてるなとか思われていやしないか。
 しかしこちらから今日の服装について言及するのも恥ずかしいし、何より彼が言葉に窮する可能性がある。
 思考が錯綜して黙り込んだ名前に何を思ったのか、何度か口の開閉を繰り返した観音坂から蚊の鳴くような声か細い声が聞こえた。
 「いいと、思います…とても」
 口元に手を当てた彼の声は、雑踏に紛れてかき消されそうなほど小さかったが、確かに名前には聞こえた。
 「…ありがとうございます」
 なんだこれ、恥ずかしい。
 観音坂を見上げると、顔は見えないが耳がほんのり色づいている。
 自分も赤くなっているのだろう、と名前は頬の熱を冷ますように手の甲を押し当てる。
 「い、行きましょうか!」
 この生暖かい空気を振り払うように、態とらしく元気に声を張り上げた名前に続くように観音坂が何度も頷いた。

 「美味しそう…」
 お店に着いた2人は、早速料理が並ぶカウンターへ足を運んだ。
 「すごいですね」
 「ですよね。観音坂さん食べられないものあります?」
 名前はお盆の上に乗せた皿から乗せられる品数を検討しつつ、観音坂の方へ振り向く。
 「いえ、特には」
 「私もです。あ、コロッケ食べます?」
 自分の分を乗せ、トングを置く前に確認した。
 「あ、はい」
 「どうぞ!」
 何となく形が他より整っているものを選び、観音坂の皿に置く。これから沢山食べられると思うと笑みが止まらない。
 「ありがとう、ございます」
 少しぎこちなく礼を述べる彼を引き連れて、どんどん移動しながら料理を乗せていった。
 名前が食べるか確認すると必ず観音坂が頷くので、最終的にお互い全く同じ物が乗っているお盆が完成してしまった。
 テーブル席に対面で腰掛けてようやくその事実に気がついた名前が顔を青くする。
 「観音坂さん好きなもの取れてないですよね?…なんか、すみません」
 つい友人とのやりとりの様に話しかけてしまったが、まさか全て肯定されるとは思わなかった。反省である。
 「あ、いえ、俺も食べたかったので、全然…というか、こういう所に来たことが無いので勝手が分からず…苗字さんに全てお任せしてしまってすみません」
 「えっ…初めて、ですか」
 予想外の発言に箸を持とうとした名前の手が止まる。こちらとしては友人と食べる昼ご飯のトップ5くらいにランチビュッフェが入り込むのだが、男性だと違うのかもしれない。
 確かに、周りを見渡すと男性だけのグループは少ないように見受けられる。
 「一二三は…こういう場には来れなくて」
 訥々と聞こえてくる平坦な声に耳を澄ませると、どうやら一二三さんとやらはビュッフェに来ないタイプらしいことが聞き取れた。
 「じゃあ、観音坂さん初めてのビュッフェ記念ですね。沢山食べましょう!あっちにワッフル焼くところもあるので、後で一緒に是非」
 こんな美味しい物が初めてなんて、素晴らしい。出来るだけいい思い出を持ち帰っていただきたいし、何ならリピートしてほしい。
 などと系列店への売上も若干気にしながら、名前は両手をそっと合わせた。
 「まずは第一弾、食べちゃいましょう」
 いただきます、と言う自分の声の後から控えめな彼の声が続いた。

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