小説 | ナノ



▼7

 店内へ入ると、柔和な笑みを浮かべた店員が2人掛けの席を案内してくれた。
 観音坂も席に着いたことを確認し、名前はメニューを開く。対面でも見やすいように横向きにずらして少しだけ頭を前に出した。
 どれも美味しそうだが、季節限定ものが出ていると気になってしまう。
 名前がメニューを真剣に見つめていると、店員が水を運んできた。
 「お決まりになりましたらお呼びください」
 軽くお辞儀をして立ち去る店員にこちらも会釈を返す。
 「観音坂さんは何にします?」
 まだ自分も決まっていないが、とメニューを見つめながら話しかけると、悩むような声が聞こえた。
 「そもそも、俺にこの量の甘いものが食べきれるか心配になってきました………」
 「えっそこからですか?」
 てっきり、彼も甘いものが好きだから来てくれたのかと思ったが、違ったのか。
 「でしたら、サンドイッチも美味しいのでどうですか?」
 パラパラとメニューを捲ってサンドイッチを見せると、観音坂が安心したように息を吐いた。
 「じゃあ、これにします」
 彼が指さしたのは、スタンダードなサンドイッチだった。普通が一番である。
 「いいですね。私はどうしようかなー」
 パフェのページに戻り眺める。色とりどりの果物が乗っている写真が、名前の視覚を刺激する。あまり観音坂を待たせるのも申し訳ないが、ここはじっくり選ばせてほしい。
 数回目線を往復させ、やはり季節限定商品を頼むことに決めた。
 「これにします。決めるの遅くてすみません」
 「あ、いえ、大丈夫です」

 注文をして店員が立ち去った後、名前は水を少しだけ口に含んだ。
 今更だが、観音坂との会話の糸口に困っている。彼について知っていることは営業職でいつも疲れていそうなことくらいだ。
 しかし、一緒に来た手前沈黙を続けるのはお互いいたたまれないだろう。何か、きっかけを、と名前が視線をテーブルの端へやると、観音坂が持っていた手提げが目に入る。
 「そのお店、私もよく行くんですよ」
 手提げのロゴを指さして名前が言うと、観音坂の瞼が瞬いた。
 「何か買う予定ないときでもつい寄っちゃうんですよね。可愛くて」
 「あ、そう、なんですか……確かに可愛らしいものが多かったですね…男一人で入るのが憚られるくらい」
 そっと目を伏せる彼に、疲労の色が見えたのはこの所為だったのかと察した。確かに、比較的女性向け商品が多い店だが、と思い返して思考が止まる。
 じゃあ、なんでわざわざそんな店に足を踏み入れたのか。考えられる最有力候補として、彼女というワードが名前の脳内を飛び回る。
 ずん、と心臓に近い部分に痛みが走った。
 「ポーチとかアクセサリーとか、女性向けの商品多いですもんね…えっと、何買ったか聞いても大丈夫ですか?」
 気になるという気持ちと聞きたくないという気持ちがせめぎ合って、結局疑問が口から飛び出してしまった。言葉を発した瞬間、何故か心拍数が上がる。
 「?はい、買ったのはマグカップですけど…」
 それは自分用か別の誰か用なのか、どっちだ。ここで完全に女性用の商品を買っていれば特定できたものの、マグカップは判断しかねる。
 どうしてそんなに恐る恐る聞いてくるのか、とでも言うような観音坂の表情に顔だけの笑顔を向けた。
 「あー、あそこ猫の形してるのとか可愛いのありますよね」
 「そう、みたいですね。俺知らなかったんですけど、マグカップ割ったときに、そこで買って来いって言われて………ほんとこんな草臥れたおっさん一人で行かせるのとか、なんの拷問だよって話なんですけど、俺が、落として割っちゃったので…致し方なく」
 あ、彼女か。しかも相当付き合いの長い部類の彼女か。
 果たして、今自分は上手に笑えているだろうか。胸のあたりが締め付けられるような感覚に、呼吸が苦しくなる。
 「そうなんですねー」
 このときばかりは接客業に勤めていて良かったと思った。いつもと変わらぬ声のトーンで話すことができる。
 そんなに仲の良い彼女がいるのなら、今この状況、ばれたらまずいのでは。
 名前は思わずあたりを見回す。いや、彼女の外見情報を知らないのでいたとしても気づけないだろう。ぐるぐると頭の中で感情が飛び交う。できるなら、今すぐこの場から飛び出して家に帰りたい。
 「お待たせいたしましたー!」
 名前の心境とは裏腹に、店員の明るい声が耳に突き刺さった。テーブルの上に乗せられたパフェは、あんなにも楽しみにしていたのに手が動かない。
 観音坂の方にもサンドイッチが置かれ、今にも食べようと手を伸ばしていた。
 「……あの、どうしました?」
 食べようとしない名前を不思議に思ったのか、観音坂が首を傾げてこちらを見てくる。
 「あ、なんでも無いです!食べましょう!」
出てきてしまったものは仕方ない。名前はスプーンでクリームを掬って口に入れた。
「………おいしー」
 嘘だ。こんなにも味気の無いものを食べたことがない。こんなはずでは無かったのに、今日は自分のご褒美に来たつもりだったのに。
 「そうですね」
 少しだけ頬を緩めてこちらを見てくる観音坂に、涙を零さないように奥歯を噛みしめた。

 食べている間はいい。お互い無言でも許される。機械的に咀嚼しながら、名前自分の感情を整理し始めた。
 観音坂に恋人がいると分かってショックを受ける程度には、彼のことが好きだ。元々恋愛関係に疎い自分だったが、失恋と同時に恋心を自覚するなんて笑えない。
 もっと話したい、笑ってほしい、なんて自分にはそんな資格なかったのだ。
 というか、彼女がいるならば女性と二人でこんなところに来るべきではない。何を考えているのか。名前が理不尽な怒りを覚え始めているのを知らない観音坂は、もぐもぐと美味しそうにサンドイッチを食べている。
 名前の視線に気づいた観音坂が恥ずかしそうに眉を下げた。
 「あまり、見られると、その…」
 「すみません!」
 伏せられた瞼に薄っすら赤味が差してる。名前も自分の食べている姿を凝視されるのは恥ずかしいので、申し訳ないと目の前のグラスに目を落とした。
 ひとまず、さっさと食べて帰ろう。帰ったら少しくらい泣くかもしれないが、今後、観音坂が店に来てもちゃんと対応できるよう頑張ろう。
 自分も大人だ。切り替えなくてはと考えたところで、カバンの中身を思い出す。
 これを渡して、この気持ちに終わりを告げてしまおうか。
 空になった器を店員が下げていく。再びお互いの間に沈黙が訪れる。
 名前は気合いを入れるために息を長く吐いた。観音坂の肩が驚いたように跳ねるが、今の自分はそれどころではない。カバンから皺一つない食事券を取り出してテーブルに置く。名前が置いた紙きれの文字を追うように顔を動かす彼へ、声をかけた。
 「あの、これ私の勤めてる喫茶店の系列で、記念に受け取ったので…どうでしょう?」
 日本語が不自由にも程かあるだろ。言ってから、もっと良い伝え方があったはずと心の中で頭を抱える。現実世界では顔を俯かせるだけに留めた。
 「えっと…はい?」
 やはり観音坂にも伝わっていないようだ。当然である。
 「いやこれ、ペアチケットで、二人で行かないとなので。えーと、どうぞ一緒に」
 彼女と行ってくださいと一言が口から出てこない。そっと彼の方へ食事券を寄せて顔を上げると、顔全体が熱を持ったように色づいた観音坂がいた。
 「えっ?!そんな、俺、俺に?…いいんですか、そんな、え、なんで」
 視線が右へ左へと落ち着かない様子の観音坂に、無理やり笑顔を張り付けて続ける。
 「色々お世話になったお礼です」
 「お、お礼?…苗字さんに為に何かをできた記憶が、ないんですが」
 ぼそぼそとか細い声で返す彼の視線はテーブルの上に固定されている。そんなにこの食事券が気になるのか。喜んでくれているなら、嬉しいような悲しいような、複雑だ。
 「お店に来てくれて、ラテアートの練習もさせてもらって、この間は重い荷物をもってもらいましたし、いつかお礼をしようと思ってたんです。と言っても、貰い物の食事券なので横流しみたいで申し訳ないですが」
 「いえ、そんな………本当に、いいんですか?」
 何もしていない、と言うくらい自然に人に優しくできる彼を、少しの間だけでも好きになれて良かった。きっと彼女も可愛くて優しい人なんだろうと思うと、すんなりと次の言葉が押し出される。
 「はい。味は保証するので、ぜひ、彼女さんと一緒に行ってください」
 「………………はい?」
 ほとんど吐息のように漏れた彼の声と驚いたような表情にこちらの方が驚く。もしかして、今までの会話で気づかないとでも思われていたのか、心外だ。
 「だから、彼女さんと一緒に、あ、もしかして奥様でしたか?!」
 あり得ない話ではないと慌てて付け加える。
 「は?!………いや、何の話を、して…え?お、俺の話、ですか?」
 「はい。観音坂さんの話で………ん?」
 なんだ、この会話が行違っている感じは。目を白黒させてテーブルと名前の顔を交互に見る観音坂に、先ほどの嬉しそうな感情は読み取れない。
 「え、だってマグカップ買ったって、彼女とかのでは?」
 「ち、ちがっ…これは一二三の!友人のです!」
 理解が追い付かない。つまり、どういうことだろう。
 名前が困ったように眉を下げていると、観音坂が早口でまくし立ててくる。
 「俺、友人と同居してて、伊弉冉一二三って言うんですけど、あ、男で、その、あいつ、マグカップは可愛いのがいいとか、訳分かんないこといいだして、そんな店知らんっていったら、ここに行けって…きっと、客の女性から教えてもらったところで、ほんと、その、つまり…彼女も、奥さんもいないです………」
 最後は今にも死にそうな声で締めくくられた。
 観音坂の蒼白な顔色と対照的に、名前の顔には熱が集まっていく。
 どうやら、とんでもない勘違いをしていたようだ。
 「というか、こんな俺に、仮に彼女がいたとして、別の女性と二人きりで食事なんて完全に浮気だろ………え、待ってくれ、つまり今俺は苗字さんにそう思われているのか…?そんな、無理だ、耐えられん…これだから俺は」
 「あの、観音坂さん」
 とうとう顔を覆ってしまった観音坂の声は大層聞き取りづらかったが、傷つけてしまったのだろう。まずは謝罪しなければと名前が口を開くと、観音坂がゆっくりと顔から手を離した。
 「すみません、私てっきり付き合いの長い彼女でもいらっしゃるのかと思って」
 「いや、苗字さんは悪くないです。俺が…俺の伝え方が悪い。いつも俺はそうだ。これだから友達が一二三しかいない。みんな俺から離れていく。俺が、俺が」
 思わず、宙にさまよっている彼の両手を勢いよく掴んでしまった。勝手に勘違いして、勝手に悲しくなったのはこちらだ。観音坂がそんなに自分を責める必要はまるで無い。
 「いえ、これは私が勘違いしたせいです。ごめんなさい。…えっと、どちらにせよお礼なので、この食事券は受け取ってください」
 このままでは謝罪合戦になって終わらなくなってしまう。名前は会話を断ち切るように、握った手に力を入れた。観音坂の瞳が、気まずそうに揺れ動く。
 「い、いや、あの、有難いですが………一緒に行く人が、いないので」
 「じゃあ、私と行きましょう」
 静かに目を伏せる彼に、衝動的に答えてしまった。悲しそうに呟くものだからつい言ってしまったが、出過ぎた真似ではないだろうか。
 「観音坂さんが、嫌じゃなければですけど」
 「そんな、嫌なんて、あり得ないです……むしろ苗字さんの方が、その、俺なんかと一緒なんて嫌じゃ、ないですか?」
 名前が続けた言葉を否定するように緩く首を振る観音坂が放った言葉を、こちらも同じ様に否定する。
 「私は観音坂さんと一緒にいるの楽しいので、むしろ嬉しいです」
 控えめに口角を上げる彼を見て、とりあえず枕を涙で濡らすことはなくなったな、と名前はぼんやり考えた。

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