小説 | ナノ



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 日頃の感謝を込めてと店長から渡されたのは、名前が勤める喫茶店と同系列店舗のお食事券だった。店舗がオープン1周年記念らしく、近くにあるここの喫茶店にも無料券が数枚配られたようだ。タダで美味しいものが食べれるなんて最高、神かなどと思っていたのも束の間で、名前の目には『ペアチケット』の文字が爛々と輝いているのであった。
 店長の言葉がリフレインする。
 「彼氏と行ってきなよ」
 後輩と顔を見合わせて首を傾げた時の、店長の察したような顔が忘れられない。

 「彼氏なんていないんだよ…!」
 思わずカップを握る名前の手に力が入る。店長に悪気が無いことなど分かっているが、ここでの働きぶりを見て、どうして自分に彼氏がいると思えるのか聞きたい。一度でもそんな浮いた話をした記憶はない。
 あまり力を入れすぎてはカップが割れてしまう、とふと我に返って力を緩めた。
 名前の後ろでは淡々と後輩がコーヒーを挽いている。相変わらずクールな女の子だ。
 挽きたてのコーヒーの香りが名前の鼻腔を擽ぐる。そう言えば、趣味でやり始めたラテアートは練習の成果かどんどん上達していった。多分、基本的なものは人に出しても問題ない程度には綺麗な模様を描ける。
 ちゃんとお礼をしなくては。結局以前持ってもらった荷物の礼も碌にしていない。
 …この食事券をお礼がわりにするの、どうだろう。
 「先輩は観音坂さんと行くんですか?」
 「なんで?!」
 思考を読まれたかのように落とされた言葉に驚き、口から出てきた声が裏返って咽せる。
 「この間のお礼するって言ってたじゃないですか」
 言った。確かに言ったし、今ちょうどその事を考えていた。だがしかし、冷静に考えてお礼として客を食事に誘う店員、怖くないか。
 「いや、逆に考えてみて?よく行くお店の店員から急に食事に誘われて行く?」
 じとりと後輩を見つめると、悩むように口元に手を寄た。言葉にしなくたって、その行動が答えだと言っているようなものである。
 「行かないでしょ。えっ、この店員めっちゃ距離詰めてくるじゃんこわ…ってなるよね。観音坂さん怯えてお店来なくなったらどうするの…」
 せっかく常連になってくれたのに、自分のせいで店から足が遠のいてしまったらなんと遣る瀬無いことか。名前は否定するように軽く頭を振った。
 そんな名前を見て、口元から手を外した後輩が一直線にこちらと視線を合わせてくる。
 「先輩なら大丈夫ですよ」
 「…んん?ごめん、意味がわからない」
 意志の強そうな瞳に見つめられて若干たじろぐが、言葉の意味が計りかねて首を捻った。
 「大丈夫です」
 何の根拠があるか不明だが、凛とした雰囲気で言い切られてしまって名前は曖昧に頷くことしか出来なかった。

 確かに、シンジュクまで来てくれるような友達は殆どいない。遊ぶときは大抵名前が中王区まで足を運んで用を済ませる。この現状に不満がある訳ではないが、少し物悲しい気分になった。どんよりと空を覆う雲が名前の気分を更に下げてくる。
 このままではどんどん気分が沈んでしまう。楽しい事を考えなくては。
 名前はカバンを掛け直し、街中を軽い足取りで歩く。今日は、最近頑張っている自分へのご褒美にパフェを食べに行くつもりだ。
 肩からかけたカバンの中には今朝貰った食事券が、シワにならないよう丁寧に仕舞われている。残念ながら本日は観音坂の来店は無かった。
 いや、来てもらったとしてあの場で話を切り出せたかと聞かれれば、答えは否である。
 もういっそ、好きな人と行ってくださいと渡してしまった方が、手っ取り早い気がしてた。
 「好きな人…」
 自分で呟いた途端、軽かった足取りの速度が遅くなる。何も考えていなかったが、そもそも彼に恋人はいるんだろうか。
 だとしたら、お礼としてでも食事に誘うのは憚られる。
 何となく、心が重くなった気がした。
 それでも今日はパフェを食べるから。無理やり足を進めて駅構内へ入った。
 名前がのんびり歩いていると、曲がり角で急に人影が現れて慌てて身体を逸らす。
 「すみません!」
 すんでの所で接触は免れたが、思い切り避けたせいで肩を軽く壁にぶつけてしまった。
 痛くは無いが、衝撃が肩に響く。
 肩を抑えながら俯く名前に、焦ったような声が聞こえてきた。とても聞き覚えがある気がするのは気のせいだろうか。
 そっと顔を上げると、見覚えのある緑混じりの赤髪が目に入った。
 お互い顔を見合わせて目を見開く。
 「えっと、こんにちは…?」
 先に口を開いたのは名前だった。余りの驚きに肩の衝撃が吹っ飛ぶ。
 「あ、はい…こんにちは…じゃなくて、あの、大丈夫ですか?」
 観音坂はおろおろと手を上げ下げして名前の体を気遣う。彼が片手に持っているのは、名前もよく行く雑貨屋の手提げ袋だ。
 「あ、全然大丈夫です。むしろ驚かせてしまってすみません」
 肩に置いていた手を降ろして緩く手を振る。
 「そう、ですか…良かった。…今、帰りですか?」
 「そうなんです。あそこのパフェ食べてから帰ります!」
 ビシッと音が出るほど勢いよく店の一角を指差して、口角を上げる。名前の指先を辿るように観音坂の目が動き、納得したように頷いた。
 「…いいですね」
 「はい!…観音坂さんは今日、お仕事お休みだったんですか?」
 顔を上げた時に気付いたが、観音坂が着ているのはスーツではなかった。普段の装いと違い、ラフな格好が新鮮だ。
 「あ、はい、そうです…」
 頷く彼が、少し疲れているように見えるのは何故だろうか。気にはなるが、折角の休みだろうし長く引き留めるのも申し訳ない。
 「いいですねー。ゆっくりしてください!」
 そう言いながら名前は軽く会釈をして歩き出そうと身を翻す。途端、袖口に違和感を感じた。
 「…ん?」
 何かに引っ張られるような感覚に視線を落とすと、誰かの指先が名前の袖口を緩く摘んでいる。誰かって、ここには1人しか居ないのだけれど。
 「観音坂さん…?」
 「…す、すみません!」
 呼びかけた瞬間に弾かれたように手を離し、おろおろと視線を動かす彼を見つめる。
 「や、別に良いですけど…もしかして何か付いてました?」
 仕事中は袖口を捲っているから汚れないはずだが、心配になって腕を上げて確認する。特に何も無い。では何故。疑問を隠そうともせず名前が観音坂を見ると、顔色が有り得ないくらい悪い。口元から小さく声が漏れ聞こえたため、少し寄ってみた。
 「いえ、何も付いて無い…無いのに、何で俺は今、苗字さんの袖口を掴んで…いや、折角会えたのに、すぐ居なくなりそうだったから…つい、なんて気持ち悪いにも程がある。俺の年齢でやっていい行動じゃない…苗字さんも困ってるし、俺のせいで、俺のせい、俺の…」
 「観音坂さーん」
 こちらが見えているはずなのに、視界に入っていないような暗い瞳で呟く彼の目の前で手を振ってみる。至近距離で振られる手に驚いたのか、瞳を大きくして名前を見る観音坂にとりあえず笑顔を浮かべた。
 言葉の意味を図りかねて会話を切り出せない。
 笑顔の中で混乱している名前を余所に、観音坂は口元に手を添えて顔を逸らしてしまった。
 まって、私はこれからどうすればいい。
 しばしの静寂のあと、そろりと観音坂が手を降ろしたと思ったら先ほどより小さな声で囁いた。
 「もし、よろしければ、俺も、その…ご一緒させて頂けたら、あの…」
 必死に喉から音を出したような、口の中で1度音が消えたような、小さな声だ。
 辛うじて聞こえたが、聞き間違いの可能性もあるので念のために確認する。
 「観音坂さんも、パフェ食べるんですか?」
 こくり、と小さく頷いた観音坂を見て何となく浮かべていた笑顔が崩れる。先ほどより上がる口角と、少し高鳴った鼓動が、全身から嬉しいと叫んでいるようだ。
 「あ、いや…やっぱり何でもないです…こんな中年と一緒にパフェなんて、苗字さんにとって罰ゲームみたいなものだよな…忘れてください」
 「えっ、何でですか?甘いもの食べるのに年齢関係ないですよ!一緒に行きましょう!」
 俯いてしまった観音坂の腕を掴む。頼りなさげに目を合わせる彼の目尻に、少し赤みが走っているように見えた。
 「…はい、よろしく、お願いします」

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