小説 | ナノ



▼5

 重い。
 両腕にギリギリ抱えている袋たちを落とすまいと、必死になりながら歩く名前に声をかけるものはいない。
 昼時のラッシュが落ち着いたと思ったら、やれ食材が足りない、こっちは飲み物が少なくなったなど厨房が俄かに騒がしくなった。
 手の空いた名前が買い出しに名乗り出るのは当然だったが、その量がおかしい。
 別々の人から不足分を聞いたため、気がつくとメモ帳いっぱいに買い出しリストが出来上がっていた。
それでも一つ一つは細々したものだからと、他に人を連れて来なかった十数分前の自分を殴り飛ばしたい。
 よろよろと店への道を進む名前に、道行くサラリーマン達が不思議そうな顔をしてすれ違っていく。近場だからと徒歩で来たのも不味かった。エプロン姿で彷徨く名前はさぞ滑稽だろう。
 しかしこちとら周りに構っている暇はない。一刻も早く荷物を店へ持っていかなければ、最悪己の腕がもげる。
 気合いを入れ直し顔を上げると、見知った顔が驚いた表情でこちらを見ていた。
 「え…苗字さん?」
 「ああ!観音坂さんこんにちは!」
 営業周りだろうか、太陽降り注ぐこの天気の中でもしっかりジャケットを羽織っている。
 お疲れ様です、と声をかけてお辞儀をしようと思ったが周りの荷物が邪魔をする。
 慌てたように駆け寄ってくる観音坂を前に袋を担ぎ直した。
 「何で、そんな大荷物…手伝います」
 手を差し伸べる彼に縋りたい気持ちを、頭を振って跳ね除ける。
 「観音坂さん、お仕事の途中ですよね?私なら大丈夫なので!」
 というか、細身の彼に中身が入りすぎてギチギチの袋を持たせるなんて気が引ける。
 ただ、名前の見た目から大丈夫さは感じられないのだろう。こちらを見る観音坂の眉が僅かに下がった。
 「外回り終わったので、今から昼休憩です」
 「…1つ、持っていただいてもよろしいですか」
 彼の一言に即座に掌を返す私を笑うがいい。それ程、腕に限界が来ていた。せめて軽い方を渡そうと身じろぎしている間に、手が伸びてくる。
 「あ、そっちの方が重いのでこっちをお願いします」
 「いや、重い方で大丈夫です…」
 今まで感じていた重みが消えたと思ったら、袋は観音坂の手に渡っていた。
 難なく持ち上げられるそれに思わずぽかんと口を開けてしまう。
 「うそ…」
 ぼそりと呟いた一言に観音坂が首を傾げる。少し不満気な顔で名前を見てくるので慌てて弁明するように言葉を滑り込ませた。
 「え、や、観音坂さん細いから、折れちゃうかと思って」
 全く弁明になっていない、思ったままの事を伝えてしまった。これだから焦ると碌なことが無い。
 「…これでも、その、男なので」
 「ほんとそうですよね!観音坂さんすごく頼りになります!助かります!かっこいい!」
 勢いで乗り切ってしまおうと浮かんでくる言葉を次々と放り投げた。なんか余計な事まで言ってしまった気がする。
 名前が観音坂と目を合わせると、薄っすらと頬を色づかせた彼が瞬時に視線を逸らす。
 「か、かっこいいって…」
 ぼそぼそと喋るの彼の声は生憎こちらまで届いてこない。とりあえず気を悪くしていない様子なので、早く店に戻ろう。
 「すみませんが、お店までお願いします。そしてお昼ご飯食べていってください」
 名前は観音坂の隣に並び、軽くなった荷物を抱きかかえるように持ち上げる。
 「…わかりました」

 2人並んで目的地まで歩く道すがら、ぽつぽつとお互い会話をし始めた。
 「いやー、気づいたらこんな量になってて焦りました」
 「…買出し、ですか」
 観音坂の落ち着いた声が耳に入ってくる。隣に並んで話すのは、初めてだ。
 「そうなんです。急に食材が無くなってしまって」
 「大変ですね…お疲れ様です」
 その言葉はむしろこちらから貴方に贈りたい。この炎天下の中歩き回っている社会人の皆さん、お疲れ様です。
 「ありがとうございます。観音坂さんも、お暑い中大変ですね」
 「もう、慣れたので…大丈夫です」
 眉を下げて口角を上げる彼を横目で捉えた。笑うのに失敗したような表情に、自然とこちらの眉も下がる。
 「慣れてても、大変なのは変わらないです。慣れるほど頑張ってるってことでしょうけど、この天気ですし熱中症なんかも気をつけて下さいね」
 そう、頭で慣れていても身体の不調はどうしたって起きる。外的要因が絡むなら尚更だ。黒いスーツはどうしたって熱を溜め込むし、被るものなどなく外に長時間出るなど、どう考えても病院へ搬送待った無しである。
 割と力持ちなのは今分かったが、見た目的に免疫機能が低そうだし心配だ。
 名前が観音坂を見上げると、彼は驚いたように微かに目を見開いていた。
 何故、今そんな顔をするんだろう。
 「え、何か変なこと言いましたか?」
 思ったことをすぐ口に出すのは自分の悪いところである。さっきもそれで後悔したばかりではないか。恐る恐る聞くと、彼は否定するように緩く首を振った。
 「あ、いえ、違う…違います…そんなこと、言われたの初めてで」
 ありがとうございます、と観音坂が口にした言葉は2人の間で溶けて消えてしまうほど、小さかった。
 名前としては、店へ1番に来るほど早く出勤し目の下にクマが出来るほど遅くまで仕事しているであろう彼に対する当然の労りだったが、観音坂の周りには同じ境遇の人が多くて感覚が麻痺しているんだろうか。恐ろしい。是非休んで欲しい。
 「あの、ほんとお疲れ様です」
 自分が如何にぬるい世界で生きているかを実感するし、出来ればそちら側の体験はしたくない。名前が出来ることと言えば、観音坂が店に来た時に美味しいコーヒーを出すくらいだ。
 「帰ったら観音坂さんの為に、気合い入れてコーヒー淹れますね」
 今日のお礼もしたいし、何かしらのサービスを付けよう。そうしよう。
 名前が1人で頷きながら前に向き直ろうとした瞬間、観音坂から聞こえるか聞こえないかギリギリの声が落とされた。
 「…そういえば、ずっとコーヒーの香りが」
 はて、本日の買出しリストにコーヒー豆は無かった筈だが。
 不思議に思って名前が彼を見上げると、こちらの表情を見て首を傾げる。
 「コーヒーの、香りがするので…豆も買ったんですか?」
 買った物にコーヒー豆は入っていないのに香りがする。そんな馬鹿なと否定しようとしたところで、名前は1つの可能性を思い付いた。
 「…多分、私ですね。朝からずっとお店に居たのでコーヒーの匂い移っちゃったのかも」
 腕を鼻の近くに上げて確認すると、若干香りがしているような気もする。長く勤めているせいで感覚が鈍ってるのか、あまり強くは感じない。隣の観音坂にわかる程度には染み込んでいるんだろう。
 そう思って腕から顔を離すと、あからさまに顔色を悪くした観音坂がいた。
 「す、すみません…!俺、何も考えないで言ってしまって、その、そんなセクハラみたいな…駄目だ。今のは完全に変態みたいじゃないか。本当に、俺はこれだから駄目だ。あまりにも配慮がなさ過ぎる。苗字さんも、こんな中年の隣を歩くなんて不快だろう…全部、俺が、俺が、俺のせい…」
 観音坂の口から流れるように溢れる言葉の波が名前を襲う。相変わらず1度スイッチが入るとよく話すなあ、とぼんやり思っていたが内容が不穏だ。少なくとも全く不快ではないし、なんなら感謝の気持ちしかないが、名前の思いは全く伝わっていないらしい。
 「いや、全然全く気にしてないですし!わざわざ荷物持ってくださる観音坂さんを不快に思うなんてありえません!私コーヒーの香り好きですし、むしろ褒め言葉!みたいな…そういえば、仕事終わりに友人と会うとコーヒー飲みたくなるって言われますね」
 喋っている間に思い出したがあれはもしや、自分から漂う香りのせいだったのか。初めて知った。
 「…褒め言葉、ですか」
 「そうです。もっと言ってください。そしてうちのコーヒー飲んでください」
 冗談めかして言いながら隣を見上げると、こちらを見て歩く観音坂と視線がかち合う。
 まつ毛が長い。鼻筋も通っているし、青色の瞳が透き通るように光を反射している。前回見た時とクマの濃さは変わらないが、整った顔であることに変わらない。
 というか、思ったより近くて驚いた。
 「…何だ、それ」
 ほんの少しだけ細められる目に、笑顔で返す。
 「うちのコーヒーは美味しいですからね!」
 話しながら歩くとあっという間に店へ着いてしまった。もう少し話しても良かったのに、と残念な気持ちになりながら扉を開く。
 「観音坂さん、本当にありがとうございました」
 カウンターの上へ持っていた荷物を置くと、観音坂も続いて荷を降ろす。折角の昼休みなのに、大変なご迷惑をかけてしまった。
 「いえ、元々ここに来るつもりだったので…」
 そのまま近くの席に掛けてもらい、厨房へ荷物を渡そうとしたところで、奥から後輩が出てきた。
 「あ、先輩、おかえりなさい」
 「ただいま」
 さて、最後の作業だとカウンター上の袋たちを厨房へ持ち込む。すぐさま観音坂の方へ注文を取りに行こうとしたところで、能天気な声が耳を貫いた。
 「えっ!名前さん1人で買い物行ったんですか?!」
 この声は、厨房担当の男性だろう。声がでかい。頭を抱え静かにしなさいと指摘するか否か迷ってやめた。まあ、明るいところが彼の良いところである。多分。
 突然響いた男の声に驚いた顔で名前を見ている観音坂へ、小さな声で謝った。
 「騒がしくてすみません」
 「あ、大丈夫です…いつも、苗字さんともう1人の女性しか、見たことなかったので、男性もいらっしゃるんですね」
 「ああ、そうなんですよ。厨房担当はこっちに出てこないから分からないですよね」
 名前は頷きながら観音坂からの注文を聞き、後ろの厨房へと伝える。
 折角来てくれたのだから、ゆっくりしてもらおう。

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