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カランカラン
扉が音を鳴らしながら開き、客の入店を知らせる。
「いらっしゃいませ!」
開店してからすぐ客が来るなんて珍しい。いつも常連達は開店後30分前後で集まり始めるはずだと扉に目を向けると、所在なさげに立っている男性がいた。傘を持っている彼は、先日会った名前の難しいあの人だ。
男性も名前を視認した瞬間、安心したように少しばかり肩の力を抜く。
常連であれば各々勝手に席に着くと思っていたが、彼は違う。慌ててそちらへ駆け寄ると、そっと傘を差し出された。
「すみません。傘、ありがとうございました」
「ああ、いえいえ。返ってわざわざすみません」
やたらと丁寧な男性である。身長は断然名前の方が低いが、何度も下げられる頭によって彼の顔面より後頭部を見る回数の方が多い。
「これからお仕事ですか?」
「いえ…これから帰ります」
なんだって?
「これから、帰る」
ロボットのように同じ言葉を繰り返すと、男性が困ったように眉を下げて頷いた。
「はい」
嘘だろまじか。という言葉を口に出す前に飲み込んだ。
昨日の出勤時間といい、今日のこの状態といい、もしかして相当ブラックな場所でお勤めなんだろうか。
「お疲れ様です…」
もう名前にはそれ以上の言葉はかけられない。全力で労りの感情を乗せて投げかけた。
「ああ、まあ、慣れてるんで」
辛い。何故そんなことに慣れなくてはいけないのだ。
「良かったら、何か食べていかれます?」
受け取った傘を元の場所に仕舞い、彼に向かって話しかける。この調子では、ご飯すら食べていない可能性がある。
「…はい」
「では、こちらへどうぞ!」
本日のお客様第一号だ。昨日は全然人が来なかったから単純に嬉しい。
2人がけのテーブル席へ案内してメニューを手渡した。
「早朝メニューはそこまで種類無くてですね、サンドイッチかホットサンドかワッフルでお選び下さい」
「サンドイッチ、お願いします」
決断が早い。自分なら数分迷うところだ。すぐさま言われた注文に、笑顔で頷く。
「かしこまりました。セットのお飲み物は…これから帰って寝る予定ですか?」
「え?…はい、そうですね」
「でしたらコーヒーは止めた方が良いですね。メニューのここから下の飲み物がいいと思います。おススメはオリジナルブレンドのハーブティーです」
数種類のハーブティーにジュース、そして牛乳が並んでいる。
「じゃあ、それで」
「かしこまりました。少々お待ちください」
一礼してカウンター内に入ると、後輩が飲み物の準備をしていた。相変わらず動きが早くて仕事のできる子だ。こちらも手早くサンドイッチ用の食パンを切り、具を挟んでいく。
あっという間に出来た食事をお盆に乗せて運び、テーブルに並べた。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
「ありがとうございます」
名前が男性を見ると彼の視線とぶつかった。漸く、彼とまともに顔を合わせた気がする。
なんというか、あの、クマがすごい。
顔立ちは整っているのにそのクマへの印象が強すぎてリアクションに困る。
恐らく寝ていないのだろう彼には早く柔らかい布団で寝て欲しいが、まずは食事をとってもらおう。
カウンターへ戻ると、ちらほら人が入り始める。さて、お仕事本番だ。
次々と出されるコーヒーを渡しながら、名前は横目で彼を見る。
先ほど指摘出来なかったが、これから帰るのにそのネームプレートは付けっ放しでいいんだろうか。こんな街中で個人情報をさらけ出したままでいていいのか、心配だ。
名前の心配を他所に、黙々と食事をしていた男性が席を立った。ちらりと此方を伺ったのを確認して、レジへ向かう。
「お会計此方です」
軽く手を挙げると、伝票を持った彼が近づいてきた。会計を告げる名前に差し出されたお札を受け取り、お釣りを手渡す。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました!…あの、別に問題無かったらいいんですけど、ネームプレートそのままで大丈夫ですか?」
何となく気になってしまって口に出した。男性はきょとんとした顔をして、自分の首元を見て眉を顰めた。
「置いてくるの忘れてた…」
ひどく小さな声で呟いてから、それを外してカバンに乱雑に入れる彼を見てそのまま会話を続ける。
「珍しいお名前ですね。かんのんさかさんですか?」
「よく間違われます…かんのんざか、です」
読み仮名を間違える失態を犯してしまった。自分の知能の低さを露呈させてしまったようで恥ずかしい。
「大変失礼しました!観音坂さんですね!」
慌てて訂正する名前の姿に、観音坂の瞳が暗く揺らめく。
「いや、こんな分かりづらい名前の俺が悪いんです。そもそも俺がここで雨宿りなんかしなければあなたにも手間を掛けさせること無かった…早く出勤したのに結局雨に当たるし、人様に迷惑はかけるし、これも、全部、俺のせいで、俺の」
何だ何だ急にどうした。
突然の情報量について行けない名前は、とりあえず彼の目の前に両手を広げて静止をかけた。
「あの、えー、よく分かりませんが、私は特に手間になることはしてないので!またお越しください!お仕事お疲れ様です!」
握った瞬間、観音坂の動きが止まったため名前が勢いのまま言葉を投げかける。言い終わった後に、徹夜明けの人に向けて余りに元気が良すぎたかと後悔し、そっと手を降ろす。
「あの、いや、はい…また来ます」
此方の勢いに圧されたのか、先ほどの暗い瞳は隠れ、ほんのりと光が灯ったように見えた。
「はい、またぜひ!」
扉をくぐり抜ける彼を見送り、カウンターに戻ると後輩が忙しなく動いている。大変申し訳ない。
ゆっくり寝れていたらいいな、なんてぼんやり考えながら自分の仕事に戻った。
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