小説 | ナノ



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 「おはようございます」
 早朝と言って差し支えない時間、名前は欠伸を1つしてから店内に向けて声を出した。
 「おはよう」
 数名からの返事を聞き、更衣室へ移動する。今日は天気が思わしくないからお客さんは少ないかも、などと考えながらロッカー内のエプロンに手をかけた。

 ここは、大通から1本外れた道に面している喫茶店である。
 オフィス街に位置するこの店は、客層の関係で開店が早い。名前は勤め始めてからずっと同じ時間帯で働いており、大体の客の顔と注文する品を覚えている。
 着替えを終え、休憩室にあるカラーペンを取りに向かった。
 毎日店先の看板に絵や文字を書くのも名前の仕事だ。今日は何を書こう。
 店から出ようとした瞬間、窓の外で強い光が瞬いた。数秒置いて轟くような音が響き渡る。
 「雷じゃん!」
 どうりで来る途中重々しい雲がそこらにあると思った。
 外を見ると、地面に叩きつけられるように雨が降っている。
 「ひええ」
 これは絶対お客さん来ないぞ。
 しかし自分の仕事は遂行しなければと、名前はペンを握りしめて扉を開ける。店の前には軒先があり、多少外に出ても雨は当たらなかった。
 「あ」
 ぽつり、と下手をしたら雨音にかき消されるような声が聞こえて、その発信源を辿る。
 名前が見上げた先には、少し髪の毛を濡らしたスーツ姿の男性がいた。
 「いらっしゃいませ…?」
 残念ながら開店前だが、反射的に挨拶をしてしまう。男性はまさか扉が開くとは思ってなかったのか、驚いた顔で名前を見つめていた。
 おそらくこの近くの会社員の方だろうが、見覚えが無い。
 「すみません。もう少しで開店なのですが、中でお待ちになりますか?」
 笑顔は接客の命。できる限り愛想良く笑うと、男性は一度肩を跳ね上げてから勢いよく頭を横に振った。
 「あ、いや、すみません。すみません、俺…雨宿りで場所を借りてしまって。すぐ、出ますので」
 そう言って走り出そうとする彼の手を思わず掴む。
 今、なんて言ったこの人。
 この雨の中を、どう見ても傘を持ってないあなたが出るだなんて正気か。
 「ちょっと待ってください。傘お貸しします」
 掴んだ手はすぐ離し、男性に早口で伝えて店内の傘立てから傘を1本取り出した。
 「どうぞ!」
 「えっ!いや、そんな俺なんかに…」
 ぼそぼそと小さな声で話す彼の声は雨音に混じって聞き取りづらい。恐らく遠慮しているんだろうと、名前は更に傘を押し付けた。
 「これ店のですし、いつ返してもらってもいいので!そのまま行ったらお仕事行く前に風邪引いちゃいますよ」
 だから使って、と半ば押し付けるように差し出す傘を、男性がおずおずと手に取ったのを確認して1つ頷く。
 「…ありがとうございます。絶対、返しに来ます」
 「いつでも大丈夫ですので!お気をつけて」
 数回こちらを振り向きお辞儀をする彼を見送り、名前は看板に向き直った。
 さて、どうしよう。
 ペンを握りながら外を見回すと、遥か遠くの方に青空が見えた。


 「ひ、ひますぎ…」
 「先輩だらしないです」
 お昼を過ぎてそろそろ甘い物でも食べたくなる頃、朝よりは小降りになったがまだ雨は止まず、客足が遠のいている。
 カウンターに突っ伏していると、後輩から冷たい一言が突き刺さった。
 「ごめんなさい」
 しかし、名前が姿勢を正して笑顔を保っても客は来ない。
 「…私帰ってもいい?」
 退勤時間はあと30分。早朝出勤のメリットは退勤後に自分の時間が沢山あることだ。
 ちゃんと労働基準法に則った職場、最高。
 「あともう少しじゃないですか」
 「ですよね」
 くだらない会話をしていると、入店を知らせるベルが鳴る。
 人の姿と一緒に、外の風景が飛び込んできた。雨は完全に止んでいる。

 雨が降った後の澄んだ空気が好きだ。
 先ほどとは打って変わって晴れやかな青空が広がる街中を、名前は上機嫌で歩く。
 やはり、外に出るときは晴れているのが一番である。
 仕事終わりにゆっくり食べ歩きが出来るなんて最高のひと時だ。今日は以前から目をつけていたハンバーグのお店へ行ってみよう。名前は暫く歩き、目的の店まで曲がり角1つ分と言ったところで、
 「あ」
 「え?」
 何やら既視感を覚える声が聞こえた。
 振り向くと、今朝の男性が歩いてきている。外回りだろうか、手には今から電話しますと言うかのように携帯が握られている。
 携帯を降ろしたかと思うと、深々と頭を下げられた。
 「今朝は、本当にありがとうございました」
 深い、余りにも深すぎるお辞儀に名前は慌てて両手を振る。
 「えっ、いやいや!大したことしてないので!」
 ぶんぶん手を振っていると、ようやく男性が顔を上げてくれた。
 「帰りに返そうと思って、傘は職場なんです…すみません」
 そう言いながらまた下がりそうな頭に静止をかける。
 「私が退勤してるだけで店は空いてますので、大丈夫ですよ」
 「たい、きん…?」
 まるで始めて聞いた単語を繰り返すようにたどたどしい言葉に、名前は続けた。
 「あ、でも貸した私がいた方がいいですよね。今週は毎朝あの時間にいるので、もしご都合よろしかったらお越しください」
 そう言いながら頭を下げると、頭の上からぽつりと声が聞こえた。
 「この時間に退勤って、都市伝説か何かか…?」
 上手く聞き取れなくて顔を上げるが、男性はこちらに話しかけた訳ではないらしい。
 「分かりました。明日、伺います」
 顔を上げた名前と視線を合わせ、軽く会釈をする彼の首から下がったネームプレートがチラチラと視界に入り込む。
 『観音坂 独歩』
 なんて読むんだろう。
 聞いてみようと名前が口を開く前に、彼が勤務中であることを思い出す。
 「よろしくお願いします。すみません、お仕事中ですよね?頑張ってください!」
 「あ、はい…ありがとうございます」
 これ以上邪魔をして仕事に支障をきたしてしまったら大変だ。
 もう一度お辞儀をして目的地までの足を速める。
 結局店に着いてからも、家に帰ってからも、名前の読み仮名が気になって気がそぞろのまま1日が終わってしまった。

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