小説 | ナノ



▼8

 雑木林もそろそろ終わりに差し掛かる頃、音之進の声がまた耳に届く。
 「名前は力持ちだな」
 背負っているせいで普段より近くから聞こえる彼の声に違和感を覚えながら、名前は笑いながら答えた。
 「流石に音之進くんくらい背負えるよ。軽いし」
 途端に音之進の腕の力が強くなり、軽く首を絞められる。
 「うえっ」
 反射的に口をついた言葉が聞こえたのか、その力はすぐに弱められが、背中越しでも伝わる不服そうな雰囲気に、また機嫌を損ねてしまったかと冷や汗が流れる。
 「音之進くんはこれからが成長期なんだからすぐ大きくなるよ。私なんてあっという間に抜かされちゃうんだろうな・・・」
 温かいぬくもりを発している小さな彼も、いずれ立派な大人になる。この時代の平均身長などは知らないが、生活の質を考えると名前の背丈を優に超えるだろう。
 「そうか」
 名前の言葉を聞いて明るい声を出す音之進の素直さに、どうかこのまま真っ直ぐ育ってくれと祈らざるを得ない。
 鯉登家は軍人の家系だ。今は小さい彼も、戦争に参加する日がきっと来るだろう。
 そう思うと言いようのない寂寞感に襲われるが、名前はそれに気づかないふりをして前を見据えた。
 会話を続けているうちに垣根の目の前まで到着し、名前はゆっくりと音之進を降ろす。
 流石に背負ったまま垣根を越えることはできない。負傷している彼には申し訳ないが、頑張って一人で進んでもらおう。
 「音之進くん、行ける?」
 「大丈夫だ。任せ」
 そう言いながら軽やかに垣根を進む彼を見て、なるほど伊達に何度もくぐってないなと感心した。おそらく腕の力で前に進んでいるのだろうが、異様に早い。
 名前も続くように垣根をくぐり、やっとの思いで屋敷に帰ることができた。
 「穴が広うて通りやすかった」
 「………あ、それ私の所為ですね」
 音之進から告げられた言葉に反射的に敬語で答えてしまう。
 そもそも音之進と自分とでは圧倒的に体格が違うのだ。決して、そう決して私が太っているとかではない、と思いたい。
 さあもう一度背負って患部の治療を、と音之進に向き直ると、これでもかというほど目を見開いた彼と目が合う。
 「怪我しちょ!」
 大きな声で放たれた言葉に、何を今更と名前は首を傾げた。
 「うん、そうだね。音之進くんは急いで手当しなきゃ」
 そう言ってしゃがみ込んた名前の顔に、音之進の両手が添えられる。
 「名前もだ」
 痛いか、と聞かれ何の事かと首を傾げながら音之進が触った頬のあたりを自分の手で辿ると、水のように滑る感触に驚く。すぐに頬へ触れた手を確認した。
 垣根を潜ったときに小枝でも当たったのだろう。先ほどまで痛みは感じていなかったが、自覚するとひりひりと痛み出した傷は思いのほか深いのか、中々血が止まらない。
 自分の足よりも名前の傷を見て痛そうな顔をする音之進を安心させるよう、彼の形の良い頭頂部を撫でる。
 「私は全然痛くないよ。こんな傷すぐ治るから大丈夫」
 それよりも彼の足を治療するのが先決だ。名前がしゃがんだまま後ろを向くとそろりと音之進が近づく気配がする。
 そのまま背負って立ち上がると、背中から唸るような低い声が聞こえた。
 「おなごん顔に傷をつけてしもた」
 聞いたことのないような沈んだ声で呟く音之進に、どうしたものかと名前は頭を捻る。
 本当に痛みも感じないくらいの傷なのに、音之進は自分の怪我より痛そうな反応をして掴んだ肩に力を入れるため、むしろ今は肩の方が痛い。
 名前は足首に振動が伝わらないようにゆっくり歩きながら、彼の機嫌を直すための方法を考える羽目になった。


 音之進を連れて行ったとき、周りの慌てようと言ったら筆舌に尽くしがたい。
 すぐに治療するよう医者を呼びに行く者、安心したように腰を抜かす者もいればもちろん、音之進を叱るように声を大きくする者もいた。誰か叱ったのかと言えば当然、ここの家主である音之進の父親である。
 治療を済ませた音之進が父親に連れられて姿を消したと思ったら、名前の手当が終わってもなお戻ってこないところを見ると、随分と絞られているらしい。
 まあ、当然である。何なら次に怒られるのは音之進から目を離してしまった自分であろう。
 そう覚悟をしていた名前だがいつまで経ってもお呼びがかからず、気が付けばもう少しで夕飯時と言わんばかりに日が暮れ始めていた。
 このまま何も言われずに終わるのだろうかと、若干落ち着かない気持ちになってきた矢先、部屋の前から音之進の声が聞こえてくる。
 「名前、入っど」
 「はい、どうぞ」
 襖が開いて名前の目にまず入ったのは、それはもう泣きはらしたかのように瞳を充血させた音之進の顔であった。続いて、彼に覆いかぶさるような身長の父親も現れる。
 これは、もう私へのお説教タイムが開始されると考えて間違いない。
 名前は崩して座っていた姿勢を正し、二人へ向き直る。
 入ってきた二人は名前の正面へ座り、あろうことか軽く頭を下げてきた。
 「えっ!?あの・・・・えっ!?」
 予期せぬ事態に動揺が止まらない。こちらは怒られる気満々で覚悟していたというのに、頭を下げられるとは誰が考え着くだろう。突然の出来事に名前の心臓が普段と違う動きをしてくる。
 そんな異常な動悸に思わず手を胸に当てていると、雇い主がそっと顔を上げ、口を開いた。
 「よう、倅を見つけてくれた。あいがとございもす」
 怪我は大丈夫か、と続けられた言葉と表情に怒りは全く見当たらない。
 隣の小さな彼も、赤くなった瞳から心配そうな色を覗かせている。
 「いえ、そもそも音之進くんと逸れた私に落ち度がありますし、探しに行くときに誰かに声を掛けておくべきでした。誠に申し訳ございませんでした。私の怪我については全く問題ありません。」
 「名前は悪くなか!おいが勝手に・・・」
 謝罪の言葉と共に名前が深々と頭を下げると、すぐさま音之進が否定する。その必死な声に名前はゆっくりと頭を左右に振った。
 「それでも、私が怪我の原因なのは変わらないから。音之進くん、ごめんなさい」
 謝る名前に、音之進の喉が詰まったようにぐっ、と鳴った。その頭に隣から伸びた大きな手が軽く乗せられる。
 「自分が良かれて思うてやったことが、相手を傷つけることもあっど」
 低くゆったりした声は、自分の息子に語りかけるように室内に響く。大きな手が頭から遠のいた後、音之進は一度だけ頷いた。

 結局名前が咎められることは無く、むしろお礼を言われてしまいどうも居心地が悪い。
 あの後すぐに雇い主は立ち去ってしまって、部屋には名前と音之進だけが残っていた。
 彼はおろおろと視線を上げ下げした後、今まで聞いたことがないような小さな声で何かを呟く。
 二人しかいない空間でも聞き取れなかった言葉に、名前は思わず聞き返した。
 「ごめんね音之進くん。なんて言ったのかな?」
 「・・・名前の・・・嫁の貰い手が無うなって聞いたんじゃ」
 「ん?なんて?」
 いや、今度は聞き取れた。聞き取れたからこそ理解ができなかったのだ。
 何故急に自分の結婚の話が出てくるのだろう。そもそも結婚どころか彼氏すらいないのだが。
 自分の思考に精神的ダメージを負いながら、名前は音之進が続きを話すのを待った。
 「おやっどとみんなが話ちょるんを聞いた。傷が残ったや嫁の貰い手に困って心配しちょった」
 「へ、へええ」
 確かに顔に傷が残るのは嫌だが、そこまで心配されているとは思わなかった。しかし別に今すぐ結婚したいわけでもないし、逆に顔に傷があるくらいで結婚を渋る男はこちらから願い下げだ。
 「えっと、みんな心配してくれてるんだね。それはありがたいんだけど、別に今・・・」
 「だから!」
 結婚の予定は無い、と名前が続けようとした瞬間、音之進の透き通るような声が遮った。
 驚いて目を瞬かせる名前とは裏腹に、音之進の真っ直ぐな瞳が体を貫くように向けられている。
 「おいが嫁に欲しかって言うたんじゃ」
 「んん?」
 先ほどから予想もしない怒涛の展開に全くついて行けないのだが、どのように対応するのが正解なのか、もう分からない。
 相変わらず真っ直ぐな瞳は爛々と光り、すこし熱を含んだようにも見えてまるでこちらを視線で焦がすようだ。
 彼はきっと幼いながらに真剣に考えて、その中で自分が責任をとれる方法を導き出したのだろう。この歳にしてとんでもない責任感である。
 しかし思考が斜め上な気がしなくもない。
 「そ、そっか、うん、えっとね…」
 回答はもちろんノー、だが真摯に向き合ってくれる彼をいかに傷つけないようにするかが重要だ。
 名前がもだもだと意味もなく手を動かすのと比例して、音之進の眉がどんどん下がっていく。
 いかん、早く何か言わないと泣いてしまう。
 「とっても嬉しいよ。ありがとう」
 まずは、そこまで私の身を案じてくれた彼に御礼を。
 「でもね、傷はいつか治るから音之進くんは気にしなくていいの。それにね、音之進くんが大人になる頃にはきっととっても素敵な人が現れるから」
 「じゃあ」
 その人と、と続けるはずの口が止まる。
 人の話を遮ってはいけません、なんて注意する間も無く彼は話し始めてしまった。
 「おいが大きっなったや嫁に来てくるっとな」
 「いや…あの、えー…そ、そうだね」
 何故肯定してしまったのか。いやもう言ってしまったものはどうしようもない。
 彼が大きくなる頃、きっと私はその場にいないし、記憶も薄れているだろう。
 名前はぎこちなく頷き、それを見た音之進が安心したように息をついた。
 「とりあえず、今日はお部屋に戻った方がいいよ」
 「わかった」
 こくり、と素直にお返事をする姿は百点満点の良い子である。
 さて、こちらも夕飯をいただいてから寝てしまおう。



 翌日、顔についた傷は跡形もなく消えーーーなんてことはなく、かさぶたが形成されていた。
 まあ当然だろう、と名前は廊下を歩く。
 「あ、おはようございます」
 「おはよう」
 すれ違う人々に挨拶をしながら曲がり角を通過した途端、身体に突然の衝撃が走った。
 何が起こったか理解する前に続け様に反対方向からの痛みに呻いてしまう。
 何かがぶつかってきて倒れたんだな、と判断して名前は恐る恐る目を開けた。
 ぶつかって来た人が怪我してたら嫌だな。
などと思いつつ開いた瞳に写ったのは、
 「……………は???」
 久しく見ていない、それでも大層見覚えのある天井、自宅であった。
 「いや………え?」
 間抜けな声を上げる名前に、反応を返してくれる人は誰もいなく、がらんとした部屋にぽつりと落ちていくだけだった。

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