小説 | ナノ



▼7

 「名前!こっちだ!」
 音之進に手を引かれながら、名前は過ぎ行く街並みを視界に捉える。以前一人で来た時と風景が違って見えるのは、その速さの所為だけではない。
 今日は現代で言うセールらしい。
 どこもかしこも安売りと書かれた暖簾を下げ、賑やかな人々を集めていた。
 貰った金銭の使い方を昨晩音之進にひっそり聞いておいた名前は、堂々とした心持ちで店の前を通り過ぎる。
 騒めく人をかき分けたどり着いたのは、いつか見ていた髪飾りのあった店だった。何故か名前本人より嬉しそうな顔をしている音之進が、店の前で立ち止まった。
 「あるじゃろか」
 そう言いながら商品を眺める音之進に、勝手ながら保護者の様な感情を抱いてしまう。
 彼のつむじを見下ろしながら、名前は自分の袂を確認した。
 とりあえず持ってきた巾着の中身で果たしてここの商品は買えるのだろうか。
 「これだ!」
 名前が手持ちの金銭に想いを馳せていると横から大きな声が耳を貫いた。声の方向を見ると、音之進が右手を掲げながらこちらに向かってきている。
 「名前!」
 「はーい」
 張り切る音之進の声と正反対に、名前は間延びした声を上げながら彼に近づいて行った。
 音之進が手を挙げているところまで行くと、目の前には先日見つけた髪留めがあった。
 やはり綺麗だ。
 「こいでよかじゃろう?」
 「うん、ありがとう」
 持っている髪留めを貰おうとした名前だったが、何故か音之進は渡してくれない。
 手を伸ばしている名前から逃れるよう、髪留めを握りしめている幼い彼の意図が読めず、自然と己の眉が下がっていく。
 とりあえず、値段を見たいのだが。
 「おいが買うてやっ!」
 「いやいやいや!」
 ふん、と誇らしげに体を反らす音之進に、名前は思わず大きな声を出してしまう。
 こんな小さな男の子、まして今や雇い主の息子から物を買ってもらうなど、私の立場がない。
 名前の反応に、大きな瞳を不思議そうな色で染め上げた音之進が瞼を瞬かせた。
 「あ、あー…音之進くんがもっと大きくなってから、別の物を買ってもらおうかな?これは自分で買うね」
 「おおきく」
 名前は小さな彼に言い聞かせるようにゆっくりとした口調で話しながら、髪飾りを自分の手元へ持っていく。
 「それに、音之進くんからは前に可愛いの貰ったし」
 付け加えるように名前が発した言葉に、音之進は不満気に眉間に皺を寄せた。
 「花は枯るっじゃろう」
 声からも納得していない感情が滲み出ている彼を宥め、自分で買った髪留めを持ちながら店外へ出る。
 逸れないように手を繋ごうと名前が差し出した手は、握られないまま空を切った。どうやら完全にヘソを曲げてしまったらしい。
 ずんずんと先に進む音之進を見失わないよう名前も足を早めるが、背丈の低い音之進が人混みに掻き消えるのは一瞬のことだった。
 あっという間に見えなくなった紫がかった黒髪に、おろおろと左右を見渡すことしかできない自分は傍から見たら相当滑稽なことだろう。
 「ど、どうしよう」
 生憎周辺の地理には詳しくないし、音之進の行きたい店などは聞いていない。
 これは本格的に逸れてしまったと、手に持った髪留めを力なく降ろす名前を気に掛けるものは誰もおらず、ただがやがやとした音が呆然と聞こえるだけだ。
 もちろんこの時代に迷子放送などあるわけはなく、とぼとぼと帰路に着く自分の背中は誰が見ても悲しみを背負っているように見えるに違いない。
 先ほど大人しく音之進に髪留めを買ってもらったら、穏便に買い物を続けることができたのだろうか。いやしかし、10歳以上年の離れている子供から高価な物を買ってもらうのは気が引ける。
 名前が歩みを止めず鯉登家の門前までやってきたとき、他の使用人がちょうど出かけると言うような風体で立ち止まっていた。名前と目が合うと、途端に目じりを下げて手招きをする。
 「音之進さまが楽しそうに走って帰ってきたじゃ。ないか良かこっでもあったとじゃろか?」
 楽しそうだったとはどういうことだ。
 私が最後に見た彼の表情はお世辞にも楽しそうとはかけ離れていた。
 にこにことほほ笑まれて名前は曖昧な笑みを浮かべて少し首を傾げるが、思い出したように手荷物を抱えなおした彼女にこちらの困惑は伝わらない。用事があるのだろう彼女を引き留めるわけにもいかず、名前は手を振って見送った。
 ひとまず音之進は帰宅しているらしいので、もう一度謝ってから話を聞くことにしよう。
 そう思って屋敷の中を探し回ったが、いるはずの彼の影すら見えない。帰ったというのは嘘ではないだろうし、この短時間で入れ違いになったとも考えづらいため名前は思わず首を捻る。
 ふと、以前話していた壊れた垣根が頭に浮かんだ。
 これだけ探してもいないのであれば、垣根の先にあると言う海に行った可能性は高い。
 広い屋敷を探し回ったせいで昼時を過ぎたため、使用人の間でも音之進の所在を探る声がちらほら聞こえてきた。
 何かしらの問題に発展する前に見つけなければと、名前は歩く足を速めて垣根の前にたどり着く。
 小さな彼の体分しか無いような大きさの隙間をのぞき込んでも先はよく見えなかった。立地的にここを抜けてからいくらか歩いたところに海があるんだろう。
 名前は家主である鯉登父と、この後ここを修繕するであろう職人のみなさんに心の中で謝罪し、勢いをつけて垣根の中に頭から突っ込んだ。
 「いたたたた」
 ぴしぴしと当たる小枝のようなものを片手で避けつつ匍匐前進する様は誰にも見せられない。きっと髪の毛は葉っぱだらけで服には砂が付き放題になっている。
 予想より厚い垣根を越え立ち上がると、名前の目の前には鬱蒼とした雑木林が広がっていた。ほぼ獣道だが、一本の線のように踏みならした小さな道が続いている。
 「いや、音之進くんいつもこんなとこ通ってんの・・・」
 お金持ちだから危ないとかではなく、純粋に危険を伴いそうな眼前の自然あるれる景色に若干の不安を感じる。
 もし、どこかで怪我をしていたらどうしよう。
 名前は焦る気持ちを抑えるように深呼吸をしてから、音之進の足跡を辿った。

 結論から言うと、音之進はすぐに見つかった。
 雑木林を抜けたと思ったらすぐ海岸にたどり着き、そこにぽつんと座っている音之進がいたのだ。
 「音之進くん!」
 駆け寄りながら大声を出す名前を、驚いたように瞳を大きくした音之進はすぐに破顔した。
 「名前!」
 立ち上がろうとした途端に顔をゆがめてしゃがみ込む小さな彼にどうかしたのかと視線を走らせる名前は、ある一点に注視する。
 なんだか、足首が腫れているような気がする。
 「もしかして、捻った?」
 「・・・・・・・・」
 無言は肯定と見做す。ばつが悪そうに顔ごと背ける音之進はもごもごと言い訳するように口の開閉を繰り返しているが、今は治療を優先しなければ。
 名前は音之進の前に背を向けてしゃがみ込んで、乗って、と一声かけた。
 強がりの一つでも口にするかと思いきや、おずおずと体を預けるように体重をかけて手を首に回してくる彼はいっそ怖いほど大人しい。
 それだけ足が痛むということかもしれない。名前は立ち上がりがてらバランスをとり、元来た道へと進む。
 首元に顔をうずめる彼から、小さな謝罪の言葉が聞こえた。
 「・・・怒っちょっか」
 続けて聞こえた名前の様子を伺うような声に、少し叱ろうなどと考えていた頭が急に柔らかな気持ちになる。
 きっと帰ったら色んな人に怒られるんだろうし、ここはちょっと甘やかしてもいいんじゃないだろうか。
 「怒ってないけど、心配したよ。もう、一人で危ないところに行かないでね」
 「・・・わかった」
 「今日みたいに怪我することだってあるんだから・・・てゆうか、なんで急にここに来たの?」
 単純に疑問に思ったことを投げかけると、音之進はもぞもぞと名前に見えるように手を差し出した。視線をやや下げる名前の目の前には綺麗な貝殻が一枚、小さな手に収まっているのが見える。
 「綺麗だね」
 「これなら枯れんじゃろう」
 ぽつぽつと呟くように落とされる言葉が耳をくすぐる。
 つまり、なんだ。彼は私に髪留めを変えない代わりに、貝殻を拾ってきたのか。
 無言の名前に何かを勘違いしたのか、音之進はたどたどしい標準語で言い直す。
 「これなら枯れないだろう。一番綺麗なのを探したんだ」
 大丈夫、伝わっているという間もなく続けられる言葉に、頬が緩むのが止められない。
 「すごく嬉しいな。音之進くんありがとう」
 不機嫌そうにいなくなってすぐ楽しそうに帰ってきたと聞かされて何事かと思った。きっと、貝殻を探す算段でも立てながら帰ってきたのだろうと思うと可愛らしくてしょうがない。
 背中に感じる体温と嬉しそうに名前の肩口に頭を乗せるその行動に、心配した気持ちすら吹っ飛ぶのだからやはり私は彼に甘い。

▼back | text| top | ▲next