小説 | ナノ



▼6

 今日は珍しく音之進が来ない。名前はぽつんと1人寂しく庭の掃き掃除をしていた。
 どうやら本日はお偉いさんとの会合があり、息子である音之進も出席するのだという。
 お金持ちって大変なんだな、と思いながら箒を動かす手は止めない。太陽が燦々と頭上から降ってくる庭を、ぐるりと見渡した。
 「ひとまず、綺麗になったかな」
 箒を片付け、自分の部屋に戻る。
 名前の手は、小さな巾着が握られていた。

 音之進の父親、名前は旦那様と呼ばせていただいている彼から声をかけられたのが今日の朝だった。
音之進が外出することで、名前の業務は午前中で終わってしまうことを聞かされると同時に、巾着に入ったお金を渡された。
 何事かと巾着を凝視していると、溌剌とした声が名前の耳を貫いた。
 「外に出て街を見てみやんせ」
 つまり、外に出て好きなものでも買ってきなさいということか。ホワイト企業が過ぎないか。
 慌てて巾着を返そうとした名前の手を押し戻し、颯爽と立ち去った彼の背中に、大きな声で感謝の言葉を述べた。

 そして昼になり、名前は屋敷の外へ出て行った。周りを見渡すと見知らぬ人々が通り過ぎていく。
 以前音之進と会ったのは何処の辺りなんだろう。探そうにも手かがりが無いので見つけるのは無理に等しい。
 今度一緒に外に出れたら聞こう。
 ふらふらと歩いていると、様々な店が立ち並ぶ大通りに出ていた。
 ここで、名前に大きな問題が生じる。
 すっかり忘れていたが、ここは自分がいた世界とは少し違う。つまり、金銭の使い方が分からないのだ。
 「私の馬鹿…!」
 せめて誰かと一緒に来ていたなら良かったが、名前の事情を知るものは今のところ誰もいない。
 仕方ないので、今日は店の前をうろつくだけの客と化すしかない。迷惑な奴である。
 のんびり歩いていると、一軒の店が名前の目に留まった。店先に帯留めや簪が置いてあるそこの店は、現代でいうアクセサリーショップだろうか。煌びやかな商品に、思わず歩く足を止めて店内を見つめてしまう。
 色とりどりの商品の中に一つ、深い紫色の髪留めがあった。
 光の加減で黒にも見えるそれは、音之進の艶やかな髪の色を思い出させる。
 残念ながら買うことのできないその髪留めを、名前は目に焼き付けるように眺めた。
 長居しても迷惑だろう。先に進むにつれ人通りが少なくなっていくのと同じく、店も減っていく。
 「あれ?」
 ふと角を曲がってみると、音之進と最初に会った風景に似ている場所が見える。
 というか、ここがそうなんだろう。
 思ったより近いところにあったな、と思う名前の周りに人はいない。遠くに聞こえる人々の笑い声と頬を撫でる風の感触に、何故だか無性に寂しくなってきた。
 「今更ホームシックか…」
 家族は自分の事を探しているのだろうか。友人は、職場の人は、どうしているだろう。
 そして、残してきた仕事はどうなっているんだろう。もしやこうしている間にも、仕事が積み重なっているのではないだろうか。
 「あ、考えるのやめよう。逆に帰るの怖くなる」
 今から不安になっても仕方ない。名前は気持ちを切り替えるように、大きく背筋を伸ばした。
 「名前!」
 伸ばしきる途中で、幼い声が耳に飛び込んでくる。自分の名前を呼ぶ声に、名前の口角は自然と上がっていく。
 振り返ると、息を切らしながら走ってくる音之進がいた。
 「音之進くん!どうしたの?」
 そのままの勢いでこちらに向かってくる音之進を抱き込むように両手を広げる名前に、小さな体がぶつかってくる。
 若干よろめいたが、なんとか受け止めることができた。
 顔を上げる音之進の目は、こちらを非難するように釣り上がっているが、身長差も相まって上目遣いのようになってしまっている。
 可愛いなあ、と名前が心を暖かくするのも束の間、音之進から大層機嫌の悪い声が聞こえてきた。
 「勝手におらんごつなっな!……帰ったんかて思うたぞ」
 最初の強い語気は、話すにつれて小さく萎んでいってしまう。
 支えている音之進から少し身を離して、名前は視線を合わせた。
 「ごめんね。ちょっと外を見てみたかったの」
 「おいがおっ時に一緒に行けばよかじゃろう」
 ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いてしまった音之進に、どうしようかと眉を下げる。
 一瞬考えた末、軽く頷きながら音之進の手を取った。
 「じゃあ、今度一緒に行こうね」
 今日はもう帰ろうか、と名前が視線を合わせるために軽く屈めていた腰を上げると、紫がかった黒髪が旋毛のところまでよく見える。
 「わかった」
 こちらを見上げて真っ直ぐな瞳を向けている彼に、きっと近い日の内に来ることになるかもと確信めいた考えが頭を過った。
 「ないか欲しかもんな無かったんか?」
 「欲しいもの?…無かったかな」
 そう言いながら通り過ぎるのは、先ほど見ていた髪飾りの店だ。やはり、音之進の髪色に似ている。
 思わず目をやっていると、袖口を引かれる感覚に顔を向ける。
 「あれか?」
 あれ、とは名前が見た髪飾りの事だろうか。
 「音之進くんの髪の毛と同じ色で綺麗だなって思っただけだよ」
 高そうだし、という言葉は口に出る前に飲み込んだ。
 「…そうか」
 彼の顔に赤みがさしているのは、照りつける西陽の所為に違いない。


 次の日、朝早くから音之進が部屋にやってきた。
 背中に何かを隠すように両手を後ろ手に組んでいる姿に、朝の回らない頭で質問する。
 「どうしたの?」
 「座ってくれ」
 きらきらした瞳で言われてしまっては、従うしかない。
 正座した名前に対して、正面を向きつつ後ろに回る音之進の姿に少しだけ笑ってしまった。
 次の瞬間、ぶすりと鈍い音と合わせて頭に軽く衝撃が走る。
 「えっ?!なに?!何事?!」
 「触るな!」
 慌てて頭に手をやろうとした名前に、音之進の鋭い声が止めにかかる。
 上げた手を半端にしたまま、名前は音之進に説明を求めるように振り向いた。
 「今日は一日そんままな!」
 「いや、待って、音之進くん私今どうなってんの?何したの?」
 まさに破顔、と言うほどの眩しい笑顔を浴びながら、自分の頭の心配をしてしまう。
 「似合うちょっぞ!」
 そう言うや否や部屋を出てってしまった音之進に、名前は首を傾げるばかりだ。
 とりあえず痛くないが、一体何があったと言うのか。
 部屋の鏡で自分の頭を見てみると、縛った髪の間に一輪の花が刺さっていた。
 「…髪飾りの代わり、かな?」
 見覚えのある花は、きっと庭に咲いていた物を切ってきたのだろう。
 大きく開いた花弁を落ちないようにそっと撫でる。
 「ありがとう、音之進くん」
 ちゃんとお礼を言わなくてはいけないな。
 立ち上がる名前が、音之進と話せるのは仕事を終わらせた後だった。

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