小説 | ナノ



▼4

 体を揺すられる感覚に目を覚ますと、見慣れた自室の天井では無かった。
 やはり、すぐ帰れるなんて考えは甘かったらしい。視線を横にずらすと体を揺らしてた原因が大きな瞳をこちらに向けている。
 名前の耳にはカラスの鳴き声も入ってきて、日が落ちてきたのだと理解した。
 「ないか食べれそうか?」
 心配そうに細められる音之進の瞳に罪悪感が募る。多分、君が思うよりずっと元気です。
 そう答える前に、名前の腹の虫が暴れ出した。ぐう、と静かな室内に響く音に思わず布団を顔まで引き寄せた。
 いい歳して、恥ずかしいにも程がある。
 「食べれそうじゃな!」
 「…はい…」
 可能ならば今、この瞬間に自分の世界へ返して欲しい。
 大層嬉しそうな声を出す音之進とは裏腹に、名前のか細い声が室内に消えていった。
 「持ってくっで待っちょってくれ」
 すっと立ち上がって襖を開ける彼に、ありがとうと声を掛けたが聞こえなかったようだ。
 音之進が立ち去った後、名前はぼんやりと周りを見回す。先ほどまで意識していなかったが、この部屋、かなり広い。
 音之進の身なりから何となく想像はついていたが、相当身分の高い家なのではないか。
 起き上がって恐る恐る外の様子を見ると、大きな池があった。暗がりでよく見えないが、ぱしゃりと魚の跳ねた音がする。
 「いや、めちゃくちゃ豪邸」
 思わず遠い目で虚空を見据える名前の耳に、避難するような高い声が響いた。
 「起きたややっせんかろう!」
 こちらを指さし眉間に皺を寄せている音之進の後ろに、お盆を持った女性がしずしずと付き添っている。
 たぶん、怒られたな。言葉の意味はわからずとも、彼の表情で何を伝えたいのかは手に取るように理解できる。感情が豊かな子で助かった。
 「ごめんなさい」
 視線を合わせるように名前が腰を屈める。距離が近づいたことによって音之進の顔が更によく見えた。
 「・・・まあ、よか」
 中に入るよう促されて布団の上に座ると、彼が女性からお盆を受け取り床に置く。つられて視線を落とし、お盆に乗っているものを見た。
 「おかゆだ」
 「ああ」
 当然、というような顔で頷く音之進が蓮華を差し出してきたので、ありがたく受けとってお椀を持ち上げる。
 暖かい湯気と微かに感じる生姜の香りに、先ほどからの空腹が限界を迎えたようだ。
 「ありがとう。いただきます」
 そっと中身を掬い、軽く息を吹きかけてから口に含む。優しい味が口一杯に広がって名前の目じりが緩く下がった。
 「美味かか?」
 じっと名前の手元を見つめる音之進に若干の食べづらさを感じるも、肯定の意味を込めて数度頷く。
 「美味しいよ」
 名前の言葉に途端に笑顔を浮かべる彼に、もう一度お礼を述べた。先ほどいた女性はいつの間にかいなくなっていて、声をかけそびれたことを後悔する。というか、あの女性、母親には若すぎるし姉にしては似ていない。お手伝いさん的な方だろうか。
 思考も手も止めず黙々とお椀の中身を空にする。生姜のおかげか、体が温まってきた。
 「今日は泊まっごつおやっどがゆっちょった」
 「ん?泊まる?」
 聞き返す名前に音之進は大きく首を縦に振る。
 「夜道は危なかで、帰っなら日が昇ってからだって」
 確かに、外を見た感じでは街灯も少なそうだったし、女が一人で出歩くには危ないだろう。そもそも名前にはここの世界に帰る場所などない。
 「帰る、ねえ・・・どこに」
 ぽつりと呟いた言葉は、誰に聞かせるでもなく口元で小さく空間に消える。音之進から不思議そうな目で見つめられたが、笑顔で誤魔化した。

 次の日、目を覚ますとやはり自分の部屋ではない。たくさん寝てたから夜は目が冴えるだろうと思っていたが、まんまと眠ってしまった。寝すぎのせいか頭が痛い。
 ゆっくり起き上がり布団を畳みながらこれからのことを考える。
 おそらく、自室で頭をぶつけた衝撃でこちらの世界に来たのだろう。なんとも情けない感じだが、それを前提とすると、やはり、セオリーとしてはもう一度頭を打たなくてはいけないかもしれない。心の底からやりたくないが、ちょっと壁にでも頭を打ち付けてみよう。
 名前は畳んだ布団を端に寄せ、周りを見渡す。部屋の片側はほぼ襖なので頭を打った拍子に壊れるだろう、却下。では、と逆側に向き直り壁に手をつく。勢いをつけてぶつかろうとした瞬間、襖の開く音が聞こえた。
 「名前、おは・・・ないしちょっど」
 「あ、音之進くん、えっと、これは・・・頭をぶつけようと・・・」
 焦りのあまり正直に話してしまった。名前を見つめる音之進の視線が、明らかに引いている。
 「なんで?」
 「家に・・・帰りたくて・・・」
 引きつった顔をしながらも質問を続ける彼に対する答えとして最悪である。確実に電波かこいつ、と思われるだろう。
 「・・・壁にびんてを打ってん家には帰れんぞ?」
 真顔で言われて心に響く。美少年の真顔って迫力あるな、などと思考を飛ばす暇もない。
 「うん、そうだよね、そうなんだけど、なんて言ったらいいんだろう・・・普通には帰れないっていうか」
 ここの世界ではない所から来ました、だなんて突拍子もないこと信じてくれるはずもない。説明できず名前が狼狽えていると、気遣うような音之進の声が聞こえてくる。
 「家に、帰れんのか」
 彼の言葉に曖昧に笑っていると、優しく手を掴まれた。
 「おいがないとかしてやっ!」
 じっと意志の強そうな視線に射貫かれて、少したじろいでしまう。
 「おやっどにゆてくっ」
 そういうや否や手が離され、音之進が身を翻した。何を言ったのか聞き取れず、茫然とする名前は、そのまま立ち尽くすことしかできなかった。

 しばらくしてから音之進が嬉しそうな顔で、大丈夫やったぞ!と言いに来たが、名前には何が大丈夫で、これから何が起きるかなんて、一つも分からなかった。

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