小説 | ナノ



▼3

 目が醒めると、案の定自宅のベッドで寝転んでいた。持っていたシャボン玉セットは消えていて、代わりに見知らぬ柄のハンカチを握りしめている。
 「おわ…」
 やっぱり戻ってこれた。名前が慌てて時計を確認すると帰宅時から全く時間が経過していない。
 どういう原理か全く分からないが、とりあえず化粧を落としたい。案外覚醒した頭ですんなりと体を起こすことができた。
 のろのろと化粧を落とし、パジャマに着替える。
 ハンカチはどうしようか。名前は両手でハンカチを広げてまじまじと見つめる。手触りが尋常じゃない程良いそれは、確実に高価な物である。
 「これ、貰って良かったのか…?」
 こちらが手当てに使ったハンカチは3セットで1000円のセール品だった。それが素人でも分かるほどの高級品で帰ってくるって、わらしべ長者かよ。恐れ多くて使えない。
 広げたハンカチを丁寧に畳んで、引き出しに保管した。
 また、と言った少年を思い浮かべて少し眉が下がる。
 「せっかく仲良くなれたのになあ」
 漫画みたいなトリップと言う物を体験したのか、めちゃくちゃリアルな夢をだったのか、自宅のベッドにいる今では判断がつかなくなってきた。
 手にあるハンカチの感触が、あれは夢では無かったのだと頭に訴えかける。
 2人で遊ぶのはとても楽しかった。
 もしまた会えるなら、次は何して遊ぼうか。
 ぼんやりと考えながら、名前は眠りにつく。


 次の日も、その次の日も名前が音之進に会うことは無かった。そもそもあの街並みを目にする事が無くなった。
 どうやら、短い異世界旅行だったらしい。
 これが漫画やアニメの世界なら、異世界に行って特殊な能力を発揮した後に世界を救う所だが、現実は甘くないようだ。
 名前は残念な気持ちを隠そうともせず、部屋で1人溜息を吐く。
 これも、もう不要だろう。
 いつでも遊べるようにとカバンにトランプを仕込んでから暫く、同僚に見つかった時には不信な目で見られたが趣味と言って乗り切った。
 片付けようと立ち上がった瞬間、足の力が抜けて体が大きくバランスを崩す。
 ガン、と何かにぶつかった衝撃を感じたかと思うが早いか、名前の意識は暗く閉じられていった。


 名前が起きると、知らない天井と少年が目に飛び込んできた。
 「え?」
 「気がちたか!」
 こちらの顔を覗き込んでいた音之進が、安心したように笑いかけてくる。
 今なんて言ったのだろう。その前に、ここは何処でなぜ君が私の目の前に。
 言いたいことがありすぎて名前の口から言葉が出ない。
 「倒れちょったで連れてきたんじゃ!」
 ニコニコと話す彼の言葉は相変わらず今いち理解できないが、聞き取れた単語からするに何処かで倒れていたらしい。
 「えっと、助けてくれてありがとう」
 現状が把握出来てない名前だが、音之進がこちらに連れてきて介抱してくれたのは分かった。
 お礼を言うと一層笑みを深くする彼の顔をまじまじと見つめる。
 「音之進くん」
 「なんじゃ?」
 寝ていたらしい布団を掴むと、柔らかな感触がする。ここが現実なんだと突きつけられたような衝撃が名前を襲う。
 ニコニコとこちらを見ていた音之進が、はたと気づいたように顔を上げた。
 「おやっどに言わんと!」
 彼は慌てたように立ち上がると、名前を見下ろして更に口を開いた。
 「待っちょってな」
 言い切る前に襖の方に走っていく音之進を、名前は見送ることしかできない。襖を開けて尚走っているのか、遠くの方で彼を注意する声が聞こえてくる。
 「それにしても、なんでまた…」
 枕元に置かれているのは飲み水だろう。のんびり手にとり中身を飲み干した。
 名前が中身の空になったグラスをそっと横に置きしばらくして、バタバタと足音が聞こえてきたたので視線を向けると、勢いよく襖が開いた。
 「具合はどうだ?」
 音之進は戻るや否や、名前に駆け寄ってウロウロと歩き回る。
 「大丈夫だよ、ありがとう」
 ふと、自分の上に影ができて顔を上げると、立派な髭を蓄えたナイスミドルが名前を見つめていた。雰囲気が音之進とよく似ている。
 「お加減はどげんやろうか。せがれがお世話になっちょりまして、すみもはん」
 何を言っているか定かではないが、頭を下げられて慌てて立ち上がろうと腰を浮かせる。
 「いえ、そんな!」
 ひとまず名前も同じように頭を下げようとする前に、立ちくらみのせいでよろけた。
 倒れる、と思った瞬間に力強い腕に支えられる。
 「良うなかようじゃなあ。まだ寝ちょってくれん」
 優しく布団に寝かされて、名前は思わず顔を赤くする。こんなに顔の整った方に優しくされると気恥ずかしい。
 「おやっど!」
 男性の足に突撃する音之進を見ると、あからさまに頬を膨らませていた。
 「名前はおいが看病すっで向こうに行っちょって!」
 眉を吊り上げて男性の腰元をぐいぐい押す彼に、呆れたような声が返される。
 「音が呼んだんじゃろう」
 分かりきっていたが親子のようだ。
 「そいに、病人ん周りでせからしゅうしては治っもんも治らん」
 相変わらず聞きなれない言葉が多いなと、名前が首を傾げているところに声がかけられる。
 「怪我が治っまで、ゆっくりしてよかたもんせ」
 「ありがとうございます…?」
 怪我、と言う単語が聞こえて思わず自分の身体を確認した。名前の目に見える範囲ではどこにも異常は見当たらない。そっと頭に手を伸ばすと、明らかに髪の毛以外の柔らかい感触がした。
 「頭…」
 おそらく巻かれてるのは包帯だろう。そういえば、意識を失う前に頭に衝撃を感じた事を思い出した。
 「痛かか?」
 心配そうに名前の顔を覗き込む音之進に、大丈夫という意味を込めて笑う。
 「痛くないよ」
 その言葉を聞いて安心したのか、目を細めた音之進が口を開こうとした瞬間、上から声が落ちてきた。
 「今は寝たもんせ。音、出っど」
 父親の一言に、音之進は一瞬不満そうな顔をしたが、名前を見て小さく頷く。
 「また後でな」
 名前が寝ている布団に軽く触れてから連れ立って出て行く2人を見送った後、緊張の糸が切れたように眠気がやってきた。
 言われた通り、少し眠ろう。
 起きた時にいつものベッドの上かもしれない、淡い期待を抱いて名前は目を閉じた。

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