小説 | ナノ



▼1

 部屋に軽快な電子音が流れ、名前の意識が一気に浮上した。手探りで音の元を辿り当てて軽く押さえ、そのまま引き寄せて画面を確認する。
 目覚まし時計代わりに使用している携帯にはアラートの表示と、6時という時刻が映し出されていた。
 「朝…」
 自分の寝癖を直すように頭を撫でるが、残念ながら名前の髪の毛は手櫛で整うほど素直ではない。寝起きで上手く動かない体に無理やり力を入れてベッドから抜け出した。
 「準備しないと」
 誰に言うわけでもない独り言が、手狭なワンルームに溶けて消えていく。
 手早く支度を済ませて部屋を後にしようとした瞬間、視界がぶれた。
 『…に…と…名前…』
 少年がノイズ混じりに視界に入ってくる。名前に呼びかけるように近づいてくる彼が、触れそうになった瞬間。
 ガツンッ
 「いった!」
 頭を玄関の扉に打ち付けた。
 痛む頭を押さえながら前を見ると、いつも通りの扉しか無い。
 「疲れてんのかなー」
 おでこ赤くなってなきゃいいけど、と思いながら名前は玄関の鍵を閉めて振り向いた。
 「…は?」
 目の前には電柱ひとつない街並みが広がっている。
 「え?」
 おかしい。先程自分の家から出たばかりで、名前の自宅は都心から離れてはいるが住宅街だった筈だ。こんなに長閑な風景が見える訳がない。
 名前が振り返ると、たった今鍵を掛けたばかりの扉が消えていた。
 「あ、これ夢か」
 白昼夢だなんて、相当疲れているんだな。
 今日は早く帰ってちゃんと寝たい。帰れるだろうか。そもそもまだ出勤もしていないのに帰宅を願ってしまう名前だが、いつまで経っても目が覚める気配がない。
 おかしい、周りを見渡すとポツンと座る男の子が見えた。何となく近づいて行くと、ぐすっと鼻をすする音が聞こえる。
 えっ泣いてる?
 周りには保護者と思われる人影すらなく、思わず少年に駆け寄った。
 「大丈夫?」
 突然降ってきた声に驚いたのか、肩を震わせて頭を上げる少年に既視感を覚えるも、全く心当たりがない。名前が軽く首を傾げていると、少年は薄い膜が張った瞳を隠すように顔を逸らした。
 「こげんの、ないでんなか」
 ふん、と声が聞こえてきそうだ。
 よく見ると膝小僧から血が滲んでおり、どこかで転んだのだろうと推測できる。
 残念ながら何と言ったか名前には分からなかったが、少年の態度を見るに平気だ、だとか問題ない、というような意味に捉えた。
 「いや、でもばい菌入ると危ないし…」
 周りに保護者がいない今、私がなんとかしなければとカバンから水とハンカチを取り出してから気づく。
 夢の中なのに、持ち物が今朝用意したものと全く同じだった。よく分からないが、自分の夢で泣いてる子供を放っておく訳にはいかない。
 「ちょっとごめんね」
 名前はペットボトルを空けて中の水をそっと膝にかけ泥を落とし、ハンカチで傷口を覆った。
 「その大きさの絆創膏は持ってないの。これでとりあえずは大丈夫だから、後は親御さんに」
 やって貰って、と名前が言い切る前に少年が勢いよく立ち上がる。
 驚いて目線を上げると、男の子が顔を真っ赤にして肩を震わせていた。
 「えっ何?ごめんなさい…」
 もしや不審者と思われて叫ばれるのでは。思わず謝ってしまった名前の予想に反して、少年は凄い速さで走り去ってしまう。
 「ええ…何で」
 手に残ったのは中途半端な量になったペットボトルとキャップだけだった。


 「おはようございます」
 フロアに一声かけて入るが、名前以外に人は2人しかおらず静かなものだ。
 あれからすぐ、視界が歪んだと思ったら家の前に居た。慌てて時計を見ると家を出た時刻から全くズレておらず、自分は瞬間的に寝る力を手に入れたのかと冗談交じりに笑ってしまう。
 自席に向かうと2人の後輩に話しかけられた。
 「苗字さんこれ見てください!」
 興奮したように雑誌を目の前に突き出す彼女たちの勢いに少し仰け反る。
 「な、なに」
 名前は近すぎる雑誌を手に取り、開かれたページの文字を目で追いながら口に出す。
 「『あなたの運命の人教えます』…うん」
 生ぬるい笑みを浮かべてそっと雑誌を差し出した。
 「あー!信じてませんね?!」
 「当たるんですってこの雑誌!」
 普段は可愛い後輩だがこうなると少し面倒くさい。始業まで暫く時間はあるし付き合ってやろう。
 名前は返そうとした雑誌を机に置き、続きを読もうと席に着く。どうやらフローチャート式のようだ。
 何となく進めてみると、すぐに結果にたどり着く。
 こんなに簡素なのに当たるわけないじゃ無いかと結果ページを捲った。後輩たちが身を乗り出して名前の方を見る。
 「どうでした?」
 「当たりました?」
 そわそわと話しかけてくる2人に、雑誌を指差しながら答えた。
 「意味がわからない」
 『今は遠くにいるけどすぐに会える』なんて書かれても、私は一体どうしたら良いんだ。

 カバンの中から無くなったハンカチも、減った水も、名前が気がつくのはもう暫く後だった。

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