小説 | ナノ



▼天邪鬼(尾形)□

 誰一人残っていないフロアに1人分のタイプ音が鳴り響いている。
 先輩にお願いされた仕事が、まさかこんなに長いことかかるなんて思わなかった。ようやく終わりが見えた書類の山に名前は小さくため息を落とす。
 凝り固まった肩をほぐすように体を反らしたところで、突然出入口の扉が開いた。
 「まだ残ってんのか」
 そう言いながら席に近づいてきたのは、同僚の尾形だった。とっくに帰ったと思ってた彼の登場に少し面食らう。
 「ちょっと仕事が終わんなくて。尾形くんこそ帰ってなかったんだね」
 「忘れ物した」
 彼が忘れ物なんて珍しい。机の中を探してる様子を一瞥し、名前は作業に戻った。

 「終わった…」
 達成感と疲労感に襲われ机に額をくっつける。なんとか終電には間に合う時間に終わって良かった。
 帰ろう。名前が顔を上げると尾形と目があった。
 「うわっ」
 思わず可愛げのかけらもない声を上げてしまう。そもそも彼がまだいることに驚いた。
 「それ、あいつの仕事だろ」
 尾形が指を指す先は名前が先ほどまで処理していた書類の山だ。
 正解だが、仮にも先輩をあいつ呼ばわりしていいんだろうか。
 「なんか急用だって言ってたから」
 「それで自分がこんな時間まで残業か。お人好しもここまでくると表彰ものだな」
 相変わらず言葉の棘が半端じゃない。疲れた心に更にトドメを刺すとは何事だ。名前が睨みつけるように目を細めると、尾形はもうこちらを見ていなかった。
 そういえば彼が来てから結構時間が経っているが、どれだけ忘れ物探しているんだ。そんなに見つけにくい忘れ物なんてあるのか。
 ひとまず帰ろう。隣に置いていた荷物を持って立ち上がる。
 「じゃ、私帰るね。尾形くんは忘れ物見つかった?」
 「見つかった」
 短く答えて彼も立ち上がったため、揃ってフロアを出た。

 利用してる駅が同じなので、必然的に並んで歩くことになった。
 「ここの通り街灯少ないから1人で歩くのちょっと怖いんだよね。尾形くんいて良かった」
 「最近不審者も出たらしいからな」
 なんだそれ、初耳だ。より尾形がいてくれてよかった。
 ぽつぽつと会話をしていると駅に着いた。家の方向は違うからここで解散することになる。
 「じゃあ、また明日ね」
 「ああ」
 家に着いたあとは疲れからかすぐ眠ってしまった。

 次の日職場に行くと、可哀想なくらい青ざめた顔の先輩が謝って来た。飲み会に行ってたらしい。
 何となく察した名前が尾形の方を見ると、胡散臭い笑顔で手を振られる。
 何か言ったな、あの人。
 優しいんだか厳しいんだかよくわからない同僚に、小さくお礼を言った。

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