小説 | ナノ



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 職場から次々と立ち去る人を見て、名前もパソコンの電源を落とす。時計を見ると約束の時間が迫っていることを示していた。
 毎週水曜日に2人で近場の店に行くと決めてから早1カ月、名前と鯉登の奇妙な友人関係は続いている。トークアプリの画面は店名と集合時間、お互いが何処に居るかという情報共有のみが羅列されていて何とも簡素だ。ちなみに今日は、牛丼を食べに行くことになっている。
 職場を出て駅の方へ向かう名前の携帯が小さく震えた。
 『着いた』
 鯉登からのメッセージに自分の足が気持ち早まるのが分かる。出来るだけ急いで仕事を切り上げてはいるが、それでも学生の彼より早く着くことが中々出来ない。申し訳ない気持ちから、更に歩くスピードを上げた。

 結局途中から走ってしまった所為で、名前の息は途切れ途切れになってしまう。目の前の鯉登が困ったように眉を下げたのが見えた。
 「いつも…遅くて…ごめん」
 息を整えながら喋ると、心配そうな鯉登と目が合う。
 「いや、私はいいんだが…大丈夫か?」
 「大丈夫大丈夫、入ろう」
 名前はひらひらと手を振りながら店の扉を開くと、鯉登を店内へ促す。彼は1度名前を見たが、大人しく足を進めた。
 店内へ入ると目の前に発券機が置いてある。先に入った鯉登は得意げに後ろを振り返った。
 「ここで選ぶんだな?」
 知っているぞ、と声が聞こえてきそうだ。相変わらず分かりやすい表情をする男である。自然と浮かぶ笑みをそのままに、名前は頷いた。
 「そうだよ。何にする?」
 ふらふらと指を彷徨わせる彼の動きが突然止まる。指先を見ると、一番スタンダードなメニューを選んだようだった。
 「ちょっと待ってね」
 券を取り出した鯉登が横にずれた所でお金を入れてボタンを押す。出てきたお釣りをしまい券を引き出すと、鯉登は驚いたように呟いた。
 「早いな」
 彼の言葉に名前はニヤリと口元を引き上げる。
 「まあね」
 伊達に長く一人暮らしをしていない。誰にも自慢できない事だと思っていたが、案外役に立つものだ。
 2人で席に着くと笑顔の店員が水を置く。名前が券を差し出すのを見て、鯉登も慌てて真似をする。店員が調理場に向かうのを見て、彼が一息ついた。
 「まだ慣れんな」
 カラン、と持ち上げたコップの中で氷がぶつかる。
 「そう?」
 名前も続くようにコップを持ち上げて口に運んだ。先ほど走ったせいか、喉が酷く渇いている。二言三言交わす間に頼んだものが運ばれてきた。ついでと言わんばかりに名前のコップに水を注いでいく店員に頭を下げる。
 「はい、じゃあ頂きます」
 そっと手を合わせた後に箸を取り、器を持ち上げた。鯉登は名前と自分の手元を交互に見つめ、同じように手を合わせる。
 「頂きます」
 空腹だったのはお互い様らしく、しばらく無言で食べ続けた。

 店員の溌剌とした声に見送られ、店を後にする。
 「食べたわー。美味しかった」
 「そうだな」
 満腹感から、駅へ向かう足取りは軽やかだ。何度か彼と食事に行っているが、一般的なチェーン店は割と回った。まだ飲酒が出来ない彼を居酒屋に連れて行く訳にはいかない。あと数回くらいで近くの場所は制覇出来そうだ。
 「あともう少しで全部回れそうだよ」
 「そうなのか?」
 隣を歩く鯉登が首を傾げる。
 「居酒屋以外だけどね」
 じゃあまた来週、と言って手をあげる名前に鯉登は無言で頷いた。

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