小説 | ナノ



▼3

 店内に入るなり席に着こうとする鯉登を慌てて呼び止めた。
 「先に選ばないと」
 戻ってきた鯉登がきょとんとした顔で名前を見てくる。彼の頭に疑問符が浮かんでいる気がした。
 「もしかして、来るの初めて?」
 いやそんなまさか、全国チェーン店だ。恐る恐る聞く名前に鯉登は頷く。
 「そっか、じゃあ説明するね」
 初めてなら分からないのも無理はない。他の客の邪魔にならないよう、名前は鯉登を店の隅に連れて行った。
 「まずあそこでドーナツを選びます」
 指差す先にはドーナツが所狭しと並んだケースと、笑顔の店員がいる。
 「ドリンクとか軽食もあるよ」
 店員の後ろにあるメニュー表に指を動かすと、鯉登の目線も同じように動いていく。
 「なるほど」
 「で、頼んだものを店員さんから受け取って席に着く」
 今度はイートインスペースに手をやった。夕食の時間帯のため、ドーナツ店にいる客はまばらである。
 「複数いる時は、受け取る人と席を探す人に分かれることが多いかな」
 少なくとも私だったら、と名前は付け加えた。名前が話している間、鯉登は真剣な表情で聞いている。
 「勉強になった」
 分かったところで注文しようと、2人でケース前に並ぶと笑顔の店員に出迎えられた。
 「こちらでお召し上がりですか?」
 「はい」
 簡単に答えてからドーナツを見つめる。何にするか決めてなかった。
 ちらりと鯉登を見ると、少し困った顔でケースの中を眺めている。
 「鯉登くんはチョコ好き?」
 「好きだ」
 とりあえずチョコが食べれれば選択肢はいくつかある。
 「生クリーム食べれる?」
 「ああ」
 じゃあこれ、と自分の分と合わせて店員に頼む。鯉登は安心したように息を吐いた。
 「沢山あってよう分からんかった」
 店員から会計を告げる声が上がり、鯉登が慌てて財布を出す。その光景を見て少し笑ってしまった名前だが、幸いにも誰にも気づかれなかった。

 「ありがとう」
 席に着き名前が鯉登にお礼を言うと、彼は若干の不満を残したような顔で呟く。
 「お礼にしては安くないか」
 「いや、本当に嬉しい。充分」
 年下の、しかも未成年に奢られるなんて社会人の名が廃る。お互いの譲歩点として納得してほしいところだ。
 そんな名前の心情が通じたかは定かでないが、鯉登は諦めたようにドーナツを口に運んだ。名前も自分のドーナツを手に取る。
 「…うまいな」
 「うん、美味しい」
 やっぱり甘いものは正義だ。鯉登に笑いかけると、彼もつられたように笑った。
 食べながら、名前は先ほど思った事を口にする。
 「鯉登くんって、もしかしてこういう所あんまり来ない?」
 いくら地方から来たと行ってもお店だってあったはずだ。単純に疑問だったので聞いただけだが、予想以上に鯉登が険しい顔をする。
 「そうだ」
 え、何その険しい顔。そんな深刻な話のつもりで切り出した訳ではない。
 「その事で今日も杉元に馬鹿にされた」
 誰だ杉元。名前は残り少ないドーナツを食べながら鯉登の話を聞く。
 「特に行く機会が無かっただけで、何故そんなに笑われなければならないんだ」
 最後の一欠片を飲み込み口の周りを拭いてから、名前は口を開いた。
 「じゃあこれから沢山新しい所に行けるね」
 きっと大学生だと友達とご飯に行く機会が増えるだろう。大学生の金銭事情は詳しくないが多分ファストフード店にだって行くはずだ。
 「また世間知らずだと杉元達に言われてしまう」
 笑顔の名前に反して、鯉登は険しい表情のままだった。
 ここで会話を終わらせれば、今後2人の関係は続くことは無かっただろう。
 何を思ったか名前の口から言葉が飛び出してくる。
 「私とお店巡りする?」
 口に出してから我に帰った。なに言ってるんだ、こんな変な申し出断るに決まっている。
 「よかか?!」
 そんな名前の思考を吹き飛ばすように、鯉登は初めて会った時のように笑った。

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