小説 | ナノ



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 麗らかな春風が顔を撫で、暖かい日差しが辺りを照らす。こんな日が休み、しかも平日の休みなんて最高だ。
 名前は浮き足立つ心をそのままに、外に出て歩いていく。今日は映画を見てからゆっくりと買い物でもしよう。
 朝の通勤ラッシュはとうに過ぎている。昼食時間にもまだ早いため、いつも混んでいる駅前にはまばらにしか人がいない。絶妙に人が少ない時間帯で更に気分が高揚する。
 駅から出て映画館への足を進めようとした時、名前の目の前に背の高い男性が現れた。背を向けている男性は、ふらふら歩いては立ち止まり左右を見渡している。
 大きなキャリーバッグを転がしているところを見ると観光客か、近くの大学に入学する予定の子だろうか。明らかに困っている様子の彼を放っておくのは良心が咎める。
 別に急ぎの用事は無いし、と名前は未だに手元と周りの風景を見比べている男性に声を掛けた。
 「あの、どちらに用事ですか?」
 ゆっくりと話しかけると、彼は勢いよく後ろを振り向いた。眉が下がっており、まさに困っていますというような表情だ。
 何というか、えらい顔のいい男性だ。
 「こん近くに大学があっはずなんじゃが」
 おっと地方から来た方だったか。名前が聞き取れたのは大学と言う単語だけだったが、ここに大学は1つしかない。
 「大学ですと、駅の反対方向ですね」
 しかも駅から出て少し歩かなくてはいけないため、彼の今の様子だと難易度が高いかもしれない。そして名前には時間がある。
 反対方向と聞いて、ショックを受けている人を置いて映画に行くのは後味も悪いし。
 「えっと、一緒に行きましょうか?」
 「よかか?!」
 嬉しそうに笑う男性を見て、良いことするのは気分がいいなと名前も笑顔を返した。

 大学への道すがら2人はポツポツと会話をする。
 彼は鯉登音之進と言うらしい。中々古風なお名前である。
 地方から来た鯉登くんは、憧れの教授がいるこの大学に今春から入学するそうだ。ちなみに過去数回大学に下見に来ているらしいが、道は覚えられなかったと恥ずかしそうに言っていた。
 名前が大学近くのオフィスで働いていると聞くと、同年齢だと思われていたようで大層驚かれた。若く見られるのは大歓迎である。
 急に敬語を使われそうになったが、喋りやすい方でいいと断った。多分彼とは今後会わないだろうし気遣う程でもない。
 「ここを曲がれば正面玄関だから」
 「助かった。何か礼をしたいのだが…」
 何て律儀なんだ。
 「そんなに大した事じゃないよ。気にしないで」
 じゃあ、と手を振り名前は立ち去ろうとした。
 鯉登くんに呼び止められたが、ちょうど彼の名前を呼んで駆け寄って来る人がいる。
 焦ったように名前と友人らしき男性を交互に見る鯉登くんに、もう一度手を振ってから歩き出した。

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