小説 | ナノ



▼観音坂

CASE2:コーヒーカップはそのままで

「あの、起きてください…!」
控えめだが切羽詰まったような声に、私は勢いよく目を開ける。視界には明らかに困っています、と眉を下げた観音坂がいた。
さっきまで部屋でのんびりしていたはずだか、一体何が起きたと言うのか。
「え、ああ…観音坂さん、こんにちは」
「あ、はい、こんにちは…って挨拶してる場合じゃない…!ここ、どこか分かりますか?」
一先ず社会人の礼儀として挨拶を交わすも、動揺している様子の観音坂はそれどころでは無いらしい。
どこって、何が?
周りを見渡すと、全く見覚えのない部屋に閉じ込められているように見える。しかもどこにも扉が見当たらない。
「え…何ですかここ?」
下に視線をやると、これまた見覚えのないソファに横になっていた。
なんだこれ、ふかふかすぎる。
「俺も、気付いた時にはここにいて、何が何だが分からないんです」
何だって。じゃあ、新手の誘拐か何かか。生憎私は身代金を払うほど裕福な生活はしていないぞ。
自分でも顔が引きつっているのが分かる。彼はそんな私を見て、更に言葉を続けた。
「でも、もしかしたら俺らのチームを妨害したい奴らとか、誰かのヒプノシスマイクの影響かも…そう、きっと、俺のせいで巻き込まれて…どうしよう、すみません、俺が、俺の、俺のせいで…」
悲しそうに、辛そうに喉から絞り出すような声で話される内容は私にはいまいち理解できなかった。観音坂を落ち着かせようと手を伸ばした瞬間、この場に不釣り合いなほどの軽快な音が鳴り響く。
驚いて顔を上げると、今まで無かった電光パネルにギラギラとした文字が輝いている。
『指相撲でどちらかが勝たないと出られない部屋』
「いや、何で?!」
呆然と文字を見る観音坂の代わりに、渾身のツッコミを斜め上に向かって叫ぶ。
一から十まで訳が分からない。仮に誰かに閉じ込められたとして、これをやらせてなんのメリットがあると言うのか。
お互い困惑した顔を見合わせる。
「とりあえず、やってみます?」
何となく生命の危機ではない事は理解できたので、ソファに座り直し観音坂に向かって右手を差し出した。
「えっ…は、はい」
ソファの隣に腰掛けおずおずと差し出してくる彼の右手をしっかり掴む。
すごい。指の長さが違いすぎて勝てる気が全くしない。どう考えても負け戦である。
「…まじか。観音坂さん指長いですね」
もしくは私の指が短いのか。やめよう、悲しくなってきた。
「いや、そんな事は…」
「しかも綺麗。羨ましい」
指相撲の形を取った手をまじまじと見てしまう。
観音坂は薄っすらと顔に朱を滲ませて、と 小さく口を開いては閉じるを繰り返していた。
「その…俺よりも、あの、えー…何でもないです…始めましょうか」
どうやら言葉にするのは諦めたらしい。激しく気になるが、今はこの謎の空間から出るのが先決だろう。
「分かりました。いきますよ…よーい、どん!」
「…………」
「…………」
お互いピクリともしないまま暫く、静寂が耳に痛い。いや、駄目だろ。終わらないだろこれ。
こちらからフェイントを数度仕掛けてみるも変わらず微動だにしない観音坂に、もしや指相撲を知らないのではと不安が過った。
「あの、観音坂さん?指相撲ってご存知ですよね?」
「え…あ、すみません!…どうぞ」
ぼんやり手元を眺めていた観音坂が、弾かれたように顔を上げる。と思ったら、親指をそっと倒してきた。
「ど、どうぞって…」
確かに出れればいいのだから、どちらかが自主的に負ける方が早い。若干の虚しさを感じながら彼の親指に自分の指を重ねた。
「いーち、にー、さーん…」
途中から本気で勝負しようとしていた私が恥ずかしい。多分、何フェイントとかやってんの?とか思われていたに違いない。
「きゅーう、じゅう」
私がカウントを終えると同時に、チープな正解音が鳴り扉が現れた。
「…普通に勝負しようとしてすみません。ありがとうございます」
「いえ、俺こそすみません…終わらせるのが勿体無くて…つい」
勿体無い?どう言うことだろう。
足早に扉へ向かう観音坂に、聞き返す事は出来なかった。

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