▼隠れ狼には気づかない(一郎)
じゃあな、と振り返ることのない背中を眺めるのは何度目だろう。
ああ、今回も失敗してしまった。
何が悪かったのか、自分の事なのに分からない。沸々と湧き上がってくる悲しみと、言いようのない腹ただしさが混ざり合って胃の中に落ちて行く。
名前は鞄から携帯を取り出し、迷う事なくトークアプリを起動した。
画面の一番上に来ているグループを選択し、文字を打ち込む。
『今日はお好み焼きを焼きます。ホットプレートを用意すること!』
すぐに既読が三つついて、了解を示すスタンプが押されていく。『山田家with名前』と書かれたセンスのかけらも無いグループ名のトークを閉じ、名前はスーパーへ足を向けた。
豚肉、キャベツに紅生姜、無心で買い物カゴに詰め込んで会計を済ませる。
感情に整理がつかない時にはキャベツを刻め。趣味の無い名前のストレス発散方法は、料理を作ることだった。
どう考えても一人では食べきれない量を作ってしまうため、いつもお隣の山田家に消費を手伝ってもらうことにしている。
最近では、台所を借りて作る始末だ。
そして名前が料理を大量に作るとき、それは振られた時だと全員分かっている。
きっと三人で噂をしながらホットプレートを出しているところだろう。
くしゃみをしながら、名前は山田家の扉を開いた。
「鍵空いてたよー。不用心だなあ」
「名前ちゃんが来るから開けてたんだよ」
買い物袋を下ろしながら呟くと、待ち構えていたかのように二郎が袋を持ち上げる。
「お邪魔します。ありがと二郎」
「ん。いらっしゃい」
礼を述べる名前に、照れ臭そうに返事をしながら二郎は奥に進んでいった。
続いて居間に入ると、ホットプレートのコンセントを繋いでいる三郎と目が合う。
「名前さん、いらっしゃい」
「お邪魔します」
若干呆れの視線を感じるのは気のせいだろうか。いや、気のせいではない。
つい先月も同じようなことで来たばかりである。この視線には、またかよ、という感情が乗せられているに違いない。
「台所借りるね…うわっ」
「おお、わり。いらっしゃい」
振り向きざまに大きな壁にぶつかったかと思えば、こちらに近づいていた一郎だった。
「一郎は相変わらずでかいね。お邪魔します」
「この間置いていった酒、後で飲むんだろ?冷やしてあるぞ」
ありがとう、と言いながら台所へ向かうと、既に材料が置かれている。二郎が持ってきてくれたのだ。仕事が早い。
「じゃあ、今からしばらく台所は不可侵です」
「わかった」
真剣な表情で伝える名前に、同じように畏まって答える一郎がふいに頭を撫でる。
「いつもありがとな」
それはこちらの台詞だ。こんな面倒くさい隣人を暖かく迎え入れてくれる彼らに、感謝の思いしかない。
「沢山作っちゃうよ」
「育ち盛りの男三人だぞ?余裕余裕」
ニヤリと悪戯っぽく笑う大きな彼を見上げて名前も口角を上げた。
無心でキャベツを刻んでいく。あっという間に、山田家のボウルはキャベツの千切りで埋まってしまった。
いくらなんでもやりすぎか、なんて考える暇もなく材料を混ぜていく。
混ざり合う食材達を見て、漸く自分の感情が整理されていくように感じた。
「運んでくださーい」
間延びした声で呼びかけると、ぞろぞろと背の高い男達が集まってくる。
昔はあんなに小さかったのに、なんて過去の情景に想いを馳せた。
一人一つボウルを渡すと、自分は食器を持ち上げる。勝手知ったる山田の家。何処に何があるかなんて分かりきっている。
「焼くよ」
頷く三つの顔が食事を期待するかのように煌めいて、その表情が余りにもそっくりなので、名前は思わず目を細めてしまう。
焼いた端から無くなっていくお好み焼きは、いっそ清々しい程綺麗に食べられていく。
途中二郎と三郎が喧嘩をしたが、一郎に諌められて粛々と食事を再開した。
「やっぱ、名前ちゃん料理うめーな!」
頬いっぱいのお好み焼きを飲み込んだ後、嬉しそうに二郎が呟く。食べていた一郎も、休憩なのかお茶を飲んでいる三郎も無言で頷いてきた。
「…ありがと」
ただ切って混ぜただけなので料理と言えるほどの物ではないが、美味しく食べてくれるなら本望だ。
名前は、そっと冷蔵庫から出したビールのプルタブを開ける。一口含むと、独特の苦味が口内に広がり炭酸が舌を刺激してくる。
「…また、駄目だったよ」
そのまま一気に飲み干した後、ぽつりと呟いた言葉を皮切りに、流れる水のように感情が溢れてくる。
「今度はね、浮気されてたんだ。…私が浮気相手だって、本命は別にいるって。…私の番号なんて登録されてたと思う?飯係だよ?!思い出したら腹立ってきた!お前のお腹満たすためだけに料理したんじゃないっての!何?!私は家政婦か?!」
足元にどんどん空き缶が転がっていく光景に、三郎が眉を潜めたのが見えた。
ごめんよ、中学生の君に見せるべきものでは無いんだけど、ちょっと聞いてほしい。
「うわー…そんな男いるのか」
二郎は名前にではなく、話の中の男に引いている。是非、そんな男にならないように話を聞いてくれ。
「こんな男ばっかりー…」
前の男は借金地獄でこっちにも肩代わりさせようとしてきたし、その前の男は既婚なのを隠して近づいてきた。
「本当に見る目無いですよね、名前さん」
切れ味の鋭い言葉のナイフが的確に精神を抉ってくる。いつもより刺さるその言葉を発した三郎の瞳には、しかし台詞とは裏腹に心配の色が宿っていることを、名前は知っていた。
「それな」
思わず人ごとのように同意してしまった。
項垂れていると、先ほどのように大きな手が名前の頭に優しく乗る。
「まあ、次があるだろ」
ぽすぽすと軽く叩かれるように撫でてくる手は、隣に座っている一郎からだった。
「優しさが染みる…」
戯けたように声を出しながら、腕で顔を隠すようにそっと涙を零す。
一定のリズムで撫でられる手に、自然と眠気が訪れる。酒の力もあるだろうが、抗えない睡魔に名前の瞼は落ちていった。
規則正しい呼吸が聞こえたと思って顔を近づけると、目を閉じた名前の横顔が見える。
「寝たか?」
確認するかのように小さな声を出す一郎に対する反応は、ない。
素早く食器の片付けをする三郎と、もたもたとホットプレートのコードを巻き取る二郎を横目で見ながら、そっと名前を抱き上げた。
相変わらず軽いな、なんて思うくらい何度も運んでいることを、彼女は知らない。
振られてはこちらに料理を振る舞い、酔っ払うまで酒を飲む。いつからか始まった習慣は、一郎が名前を布団まで運ぶところまでがセットになっていた。
起きた彼女は自分で寝に行ったのだと思うし、それを誰も否定しない。
この警戒心の無さは、自分達を家族のような存在だと思っているからだろう。
その立ち位置を崩したくない反面、一歩踏み出したい気持ちが年々強くなってきた。
予め出しておいた名前用の布団に、優しく身体を横たわらせる。
枕に頭を置いた彼女の目元が、薄っすらと赤くなっている。
「俺なら、こんな風に泣かせねえのにな」
きっと明日には何事も無かったかのように笑って話しかけてくる。
そしてまた、誰かを好きになるんだろうか。
「…俺にしておけばいいのに」
寝返りを打つ名前の頬を軽く撫でて、起きてる時には口に出したことの無い言葉を吐いた。
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