小説 | ナノ



▼ゆるやかな夜更け

 カツカツと背の低いヒールを踏みならして、街灯輝く大通りを歩く。通り過ぎる車たちの風が名前の髪の毛を散らして顔を顰めた。
 この行き場のない怒りをどうしてくれよう。
 職場でのやり取りを思い出して、更に力強く足を踏み出してしまった。
 落ち着け、と深呼吸を1つして自宅のマンションを見上げる。
 「あれ」
 朝開けたはずの部屋のカーテンが閉まっており、光が漏れているのが見えた。
 もしかして、来てくれているんだろうか。
 急いで部屋の鍵を取り出しながらエレベーターに乗り込む。
 疲れによってもつれる足を叱咤しながら、急いで玄関の扉に手をかけた。
 扉を開けた瞬間感じる柔らかな空気と、鰹出汁の香りが身体全体を包むような感覚に、ようやく肩の力が抜けていくのを感じる。
 「おかえり…お邪魔してます」
 「ただいま。いらっしゃい」
 先日合鍵を渡してから、独歩は時々こうして名前の家を訪れる。
 いつもは事前に連絡をくれていたが、今日はどうしたんだろう。
 「連絡入れたけど、見てないだろ」
 心を読んだような台詞に思わず目を瞬かせた。そっと自分の携帯を見ると、確かにメッセージが入っている。
 「忙しすぎて見てなかった…」
 「この時期、忙しいって言ってたもんな」
 ごめんなさいと頭を下げると、緩く首を振る彼に部屋に入るよう促された。
 怠い足を引きずりながらキッチンを見ると、手鍋に茶色く透き通ったスープがコンロに鎮座している。
 「うどんを、作ったから…って言っても麺は冷凍の奴だし、つゆだって薄めるだけの市販品だ…しかもネギに至っては、お前が刻んでタッパーに入れてたのを使う。実質俺は何も…何も出来てない」
 自嘲気味に笑う彼の両肩を優しく掴み、諭すように語りかけた。
 「うどんは解凍しないといけないし、つゆは薄めて温めなくちゃ駄目だし、ネギだって冷蔵庫からタッパーとって出さなきゃ食べれないんだよ?独歩さん、私今とっても助かってる。ほんと、まじで」
 正直彼が居なかったら何も食べずに寝ようと思っていたくらい、疲れていた。帰ってきてすぐに食べられる物があるなんて、有難いこと山の如しである。
 「そ、そうか…?じゃああの、今からうどん解凍するので」
 「私は着替えまーす」
 名前は間延びした声で掴んでた肩から手を離し、寝室へ向かった。

 リビングに戻ると、すでに器がテーブルの上へ置かれている。目の前にあるのは自分の分だが、向かい側にもうひとつ置いてある事に気付く。
 「あれ、独歩さんも今食べるの?」
 「…お前のこと待ってたんだよ。一緒に、食べよう」
 名前の疲れた心に独歩さんの言葉が優しく染み渡る。なんだこれ、アニマルセラピーならぬ独歩セラピーが開設されたのか。
 「神に感謝…」
 そっと名前が手を合わせると、首を傾げながら眉を下げる。残念ながら解説する元気までは無いので、そのまま流れるように言葉を発した。
 「いただきます」
 「あ、はい…どうぞ」
 温かいうどんをするすると胃に納めていくと、不安そうな顔をした独歩と目が合う。
 「美味しい。独歩さんありがとう」
 飲み込んでからそう告げると、安心したように彼の口元が緩んだ。
 「良かった…これで麺が解凍しきってなかったり、つゆが濃すぎたり薄すぎたりしたら、本当に俺、居る意味ないから…いや、そもそもそんな心配するくらい俺が普段料理をしてないって事で、いつも周りに作ってもらってるかコンビニで済ます、そういう日頃の行いが悪いから大事な時に失敗するんだ、俺は…これだから」
 先ほど緩んだはずの口元が段々と落ちていって、ついでに頭も下げられていったので名前からは表情が見えなくなってしまう。
 「独歩さんが普段料理しないのは忙しいからでしょう?今こうして美味しい食事にありつけている私は満足だけど、何か問題あった?」
 言いながら食べると言う行儀の悪い事をしている名前を、顔を上げた独歩がぼんやりと見つめてくる。
 「お前が、いいなら…良いのか」
 「いいの。独歩さんも食べないとうどん伸びちゃうよ」
 そっか、と小さく呟いた彼もようやく箸を取り麺を口に運ぶ。
 しばらく無言で食べていると、気がついたら器につゆだけが残って自分の顔が反射していた。
 少し揺らすと歪むその顔に、何故だか今日の出来事が思い出される。
 「…ごめん、独歩さん。ちょっと愚痴言ってもいい?」
 「え、良いけど…俺何かした?」
 慌てて否定した後、勝手に口から飛び出してくるのは今日の事で、流れる水の如く言葉が滑り落ちてくる。
 やはり自分の中で今日の事は腹に据えかねていたらしい。声に出して幾分か落ち着いた所で、我に帰った。
 「って、ことで…折角来てくれたのにご飯作らせた上に、愚痴まで聞かせてすみません」
 椅子に座ったまま深々と頭を下げる。彼からしたら、私の家に来てから良いこと何も無いのではないか。今更ながらに罪悪感が押し寄せてきた。
 「いや、うん…色々あるよな、お前も…俺が聞いて、その、気が楽になるならいつでも聞く」
 神対応とはこの事か。思わず目頭が熱くなる。
 遅く帰ってきたらご飯を作ってくれて、愚痴も聞いてくれる。これは、もう。
 「あー…もう、結婚して…」
 「え」
 心の声が音になって出ていってしまった。勢いよく上げた名前の顔と驚きに見開かれた独歩の顔がかち合う。
 目が合った瞬間、ふらふらと視線を彷徨わせる彼に、さっきまで暖かかった心と身体が一気に冷え込むのを感じた。
 独歩の眉は困ったように下げられて、全く視線が合わなくなってしまう。
 今からでも冗談だと笑い飛ばした方が、この関係を続けられるだろうか。
 「あのー」
 恐る恐る彼に声をかけると、微かに肩を跳ねさせてから漸くこちらを見てくれた。
 「いつかは、そうするつもりだけど…その台詞は、ちゃんとした時に俺から言うので、えっと…待ってて、ください」
 今度は、私が聞き返す番だった。
 「え、何?え?」
 「指輪とか、準備がいるだろ…」
 薄っすらと赤くなっている顔に、テーブルに手を置いて前のめりになる。
 揺れた器に映る自分の顔なんて、見る余裕は無い。

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