▼煙草はほどほどに
「…は?」
数字が合わない。
淀みなく動かしていた手を止め、画面を凝視する。いくら見つめていたって解決するものでは無いが、突きつけられた現実を認めたくない。
これは、もしや。
「徹夜確定だ…」
力なくうな垂れた名前の頭に、机の冷たい感触が虚しさを助長した。
そもそも打ち込みをしている時点で定時はとうに過ぎ、ようやく終わりが見えた頃には23時を回っていた。あともう少しだと、勢いで乗り切っていた集中力も限界を迎えてきている。
「ちょっと休憩します」
静まり返ったフロアには自分以外にも2.3人残っている。皆一様にパソコンの画面に向かい死んだ目で手を動かしているようだった。
喫煙所へ入り煙草を取り出す。ポケットから出したライターを近づけて火をつけようとしたが、中々擦っても点火しないということはオイルが切れたのか。今日は本当についてないな。なんとか火が灯った煙草を口元に持ってきた。
揺蕩う煙を呆然と見据えながら息を吸う。自分が煙草を吸うようになってからどれくらい経ったか、曖昧な記憶を遡ろうとして止める。とりあえず、ここに勤めてから消費量が激しくなった事だけ心に留めておこう。
名前が口元からゆっくり息を吐き出していると、喫煙所の扉が開いた。同じ部署で喫煙者は名前しか居なかったはずだが、誰が来たんだろう。
「あ」
「あー、観音坂くんだ」
隣の部署の同期だった。彼は名前の方を見て不思議そうな顔をする。
「こんな時間まで、何してるんだ?」
「その台詞そのまま返すよ。観音坂くん何でいるの」
お互いの顔を見つめ合う事数秒、同時に大きなため息を吐いた。
「いや、うん…おつかれ」
「ありがと。観音坂くんも、お疲れ様です」
これはお察しください、という事だろう。多分どちらも終電には間に合わない。
再度煙草を口に咥えながら空いた手で彼を隣に手招く。ふらふらとした足取りでこちらに近づいてくる観音坂に、この人寝てないのではないかと心配になった。もう一度、煙を吐き出す。
「ここより仮眠室行った方がいいんじゃない?」
「いや、行っても眠れないから…あれ」
それって相当重症なのでは。近づいた彼の目元にはどす黒いクマが刻まれている。
煙草を出した観音坂が、探し物をするようにぱたぱたとポケットを軽く叩きだした。
「ライターないの?」
「忘れた…苗字の借りていいか?」
いいよ、と言おうとしたところで自分のライターもオイルが切れかかってることを思い出す。
一度戻ってまたここに来るのも億劫だろう。この時の名前は、純粋な善意でそれを思いついた。
「オイル切れてるから、ここからどうぞ」
指差したのは、自分の煙草だ。
「は?」
何言ってるんだこいつ、という目で見られるのは心外だ。吸って火力を増すために咥え直した煙草の所為で、上手く話せない。
「ん」
早くしろ、という意味を込めて顔を近づけると慌てたように観音坂が煙草を取り出す。
彼が震える手で箱から一本取り出し、静かに口元に持ってきた。そのまま名前の煙草へと顔を寄せる。
あ、これ思ったより顔近いな。
火の行き先を狂わせないよう、お互いの視線は相手の口元に集中する。それぞれの煙草が触れ合った瞬間、少しだけ息を吸った。
何となく目線を上へやると、伏し目がちな観音坂くんと目が合う。
まつげ長い。思わずじろじろ見てしまいそうになったが、物凄い勢いで顔を逸らされてしまった。
「あっぶな!観音坂くん、お互い煙草咥えてるんだから気をつけて!」
すぐさま指に挟んで灰皿へ向かって数度指で弾く。パラパラと灰が落ちていった。
「苗字、お前、ほんと、そういうところ…勘弁してくれ」
彼の手元には、無事煙が上がる煙草が収まっている。お互いライターないし、今のが最善策だと思ったから実行したまでだ。何が悪い。
「これで吸えるでしょ」
「いや、吸えるけど…というか、そっちこそ寝てないだろ…どう考えても判断力が無くなってる…普通、こんなこと男相手にするか?」
ボソボソ呟く観音坂の声が確かに聞こえているのに、名前の頭に入ってこない。これは、一回寝た方が良さそうだ。
「ちょっと仮眠室行くわ」
「そうしてくれ…すぐ、寝ろ」
彼だって寝てないくせに、珍しく語気を強めて言われて思わず睨みつけるような目を向けてしまう。
「観音坂くん顔赤いけど何、風邪?」
「俺の事はいいから、早く、寝ろ!」
ぐいぐいと背中を押されて喫煙所から追い出される。
何だ何だ。案外力が強いぞ観音坂くん。
「あと、苗字…これ、絶対他の奴にやるなよ」
じとり、と据わった目で見つめられて思わず頷く。
「おやすみなさい」
「…おやすみ」
目覚めた名前が、今までの行動を振り返って赤面するのはもう少し後のことだ。
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