▼君と穏やかな朝食を
フライパンを片手に時計を見ると、針は丁度正午を指している。
昨日日付が変わる直前にやってきて、そのまま寝てしまった独歩を起こすべきか否か、迷いどころだ。
いつも睡眠が浅いと自分で言っている彼が、ここまで長時間寝ているのは珍しい。名前の中で寝かせてあげたい気持ちと食事をさせたい気持ちがせめぎ合う。
「いや、でも寝過ぎて今度は夜寝れないってなっても困るよね」
うん、と一人で頷きフライパンをコンロの上に置いた。とりあえず食べる物を作ってから起こそう。
昨日冷蔵庫に入れておいた保存容器を取り出す。中には、切られたフランスパンが所狭しと詰められていた。注いでいた卵液は見る影もなく、全てパンに吸収されたようだ。
家に来ると聞いた時から、独歩に食べて欲しくて名前が事前に用意していたフレンチトーストを、にやにやしながら見つめる。
これは、絶対美味しいやつだ。
フライパンにバターを熱し、順にパンを投入する。片面が焼けたらひっくり返す。
ふわり、とバターと卵の香りが鼻を擽った。
両面を軽く焼いたらグラニュー糖を振りかけてもう一度焼く。溶けた砂糖がカラメル状になって、バターの香りと混ざる。ぐう、と自分のお腹が小さく鳴った。
卵液は砂糖を入れていないから、これで程良い甘さになっていると思うが、彼の好みに合うだろうか。
焼けた側から皿に盛り付け、傍にサラダを乗せる。サラダは市販のやつだが、まあいいだろう。
2つの皿をテーブルに置いてから、寝室に足を向けた。扉の前に立つが、まだ独歩が起きて来る気配はない。
申し訳ないが、ご飯も作ってしまった事だし起きていただこう。
名前が静かに扉を開けると、彼の声がもごもごと聞こえてきた。
もしかして起きたか?
そっと近づいて見ると、眉間に皺を寄せて顔の近くの布団を握りしめている独歩がいた。
「すみません、すみません課長…俺の、俺のせいで…」
「え、夢の中でも謝ってる…」
可哀想過ぎるだろ。折角の睡眠まで社会に侵されているとか、社畜怖い。
彼の寝言により、名前の起こす意思が強くなった。
「独歩さん、起きてください」
とんとん、と軽く身体を叩くが彼は唸って身をよじるだけだった。
もう少し、強めにやろう。
「独歩さん、起きてー」
今度は両手で身体を揺り動かす。すみません、と小さく謝られた。
いや、すみませんじゃないんだ。起きて。
こうしている間にもフレンチトーストが冷めていく。最終手段、と勢いよく布団を剥がして肩を揺さぶった。
「独歩さん、おはようございます!」
「…う」
ようやく起きたか、と手を離して剥がした布団を畳もうとすると、不満気にボソボソと喋る独歩の声が聞こえた。
「…同居人は、もっと、丁寧に、起こせって…一二三…」
「え?」
一二三?確か独歩の同居人の男性だ。直接会ったことは無いが、一度だけ写真を見せてもらった事がある。
間違えられているのか。それは、何となく、面白く無いんだが。
名前は自分の眉間に力が入るのを自覚しながら、少し強めに言葉を発する。
「残念ながら一二三さんじゃないですよ」
ぼんやりと目を擦っている独歩さんの顔を覗き込む。目が合うと、きょとんとした表情の彼と向き合うことになった。
「えっ、何で、ここに…あ、違う、俺の家じゃ無かった…」
「ですね。私の家です。ご飯作ったので起こしちゃいました…食べたく無かったら、寝ててもいいですけど」
随分と可愛げのない言葉を吐いてしまって後悔する。会ったこともない、しかも男性に嫉妬するなんて、なんて心が狭いんだろう。
踵を返してリビングに向かう名前の後ろを、独歩が慌ててついて来る気配を感じた。
「た、食べる!食べます!」
少しだけ冷めたフレンチトーストを口に含む。冷めても美味しいが、やっぱり焼きたての方がいい。今度は起こしてから作ろう。
「あの…怒ってる?」
「何でですか?」
フレンチトーストの焼き加減の事を考えている名前へ、独歩が恐る恐る話しかけてきた。
「さっきから、笑ってくれない、から」
悲しそうな顔でこちらを見つめる彼に言葉が詰まる。別に怒ってないが、貴方の同居人に嫉妬しましたなんて、恥ずかしくて言えない。しかも、寝ぼけていた独歩が自分の発言を覚えているとは限らない。
「怒ってないですよ」
名前が意識して笑顔を作ると、独歩の眉が更に下がる。
「嘘だ…無理して笑ってることくらい、俺にだって分かる、俺…何かした?」
不安と怯えが混ざった様な視線が左右に揺れる。その顔は卑怯だと思う。
「いや、本当に怒ってないんですよ。私が勝手にしっ…何でも無いです」
危ない、彼の視線に負けて思わず言うところだった。こんな、心の狭い女だと思われたくない。
「え、絶対今何か言いかけただろ…俺に、不満があるなら言って…出来るだけ、直すように努力する」
とうとう手に持っていたフォークも置いて真っ直ぐこちらを見据える彼に、言い訳する方法なんて思いつかなかった。
「聞いても、呆れませんか?」
「呆れる?名前ちゃんに?…何で」
心の底から不思議です、とでも言わんばかりに首を傾げる彼を見て一つ息を吐く。
「さっき、独歩さんを起こした時のこと覚えてます?」
「…ん、少しは」
小さく頷いた独歩に、名前は言いづらそうに口を開いた。
「起こした時に、一二三って、呼ばれたんですけど…それで、少し嫉妬したと言うか、すみません。心が狭くて」
だって、一緒に暮らしているのだ。きっと自分の知らない独歩のことだって知っているに違いない。確か、幼馴染だとも言っていたし、そんなの、何と言うか。
「ずるい、と思ってしまって…私だってもっと独歩さんと会いたいし、独歩さんの事知りたいのにって…本当、めんどくさい女ですみません」
テーブルにぶつける勢いで頭を下げる。暫くそうしていたが、独歩から何の反応もない。
ゆっくり顔を上げると、彼は片手を口元に当てもう片方の手は拳を握りしめている。
何だ、それはどういう反応だ。呆れられてはいないのか。
「あの、独歩さん」
「…嘘だろ、あまりにも可愛すぎる…こんな子が、俺の彼女…?これは現実か…?」
おろおろと様子を伺うと、覆った口元から独歩の声が漏れ聞こえてくる。
くぐもって聞こえづらかったが、嬉しい言葉を言ってくれた気がした。
「あの」
名前の声に手を離した独歩が、緩く目尻を下げてこちらに向かって口を開く。
「嬉しい…その、間違ったことは謝る。ごめん。でも、俺の事考えてくれて…知りたいって思ってくれて、嬉しい…呆れるなんてこと、ないから。むしろ、いや、絶対…心なら俺の方が狭いし…今、話の流れでしょうがないけど、一二三って呼び捨てにしたの、ちょっと妬いた」
頼りなく眉を下げて笑う彼と目を合わせて、こちらも笑う。
「お互い、一二三さんに嫉妬ですね」
「そうだな…やっぱり、名前ちゃんは笑った顔が一番可愛い」
心底嬉しそうな顔で見つめられて、体温が上がっていく。熱い、主に顔周辺から火が出そうなくらい熱い。
「お、おかわりいります?!」
「…お願いします」
まだ食べかけのフレンチトーストが残っているが、赤い顔を誤魔化すように立ち上がった名前に、優しい声が届いた。
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