小説 | ナノ



▼年上彼氏のススメ

 『仕事が終わりそうにないです。すみません』
 待ち合わせ予定時刻を過ぎること5分、携帯を見てまたかと溜息をつく。
 おそらく文字を打つ時間も惜しかったのだろう、絵文字もスタンプもない簡素なメッセージに返事を打った。
 『了解です』
 怒っていると思われないように念のため可愛らしいスタンプも添えてみる。多分、こちらのメッセージを見るのはもっと後になるんだろう。
 彼、観音坂独歩と付き合ってからもうすぐ半年に差し掛かるところだが、デートのキャンセルは何回目だろうか。10を超えたところで数えるのを止めてしまったため分からくなった。
 こちらも社会に出ている身として、やっても終わらないサービス残業に何故か呼び出される休日など、身に覚えがありすぎて責めることは出来ない。
 しかし、こうも会う時間が少ないと寂しいのも事実で、名前は肩を落としながら帰路に着くのであった。

 何か良い方法はないか、と自分の部屋の鍵を回す。カチャリと音を立てて開いたそれを見て閃いた。
 外で会うのが難しいなら、家で会えばいいじゃない。合鍵作ろう。
 家なら遅くても泊まればいいんだし、少しでも一緒にいる時間が増えるなら最高だ。
 思い立ったが吉日。名前は身を翻しお店へと走り出した。

 折角だから、半年の記念にプレゼントとか、いいんじゃないか。
 全速力で走った甲斐あり閉店前の店へと滑り込むことが出来た。手元には家の鍵が2つ並んでいる。緩む口元を抑えられず、軽快な足取りで帰宅した。
 夜も更けてきてそろそろ寝るか、というタイミングで携帯が震える。
 画面を見ると、独歩からの謝罪が長々と続いているようで、通知欄の文章が途切れていた。
 こちらとしては怒りよりも彼の体調を心配する気持ちが強いので、そこまで大仰に謝らなくてもいいのだが、彼の性格上言っても聞かないだろう。
 『大丈夫です!話したいことがあるので、都合の良い日に我が家に来てください』
 鍵を渡したい一心で打った返事だが、字面が不穏だ。自分で打ち出しておいてなんだが、多少、いや大分別れ話を切り出す女の定型文みたいなものになってしまった。
 『間違えました!話したいことはないです!』
 急いで訂正しようと打った文字が、より事態を悪化させてる気がしてならない。私は馬鹿か。これだから焦ると碌なことがない。送った手前消すことも出来ないな、と頭を抱えている所にけたたましい着信音が鳴り響いた。
 「はい」
 『…っあの!今の…見て、お、俺、俺が全然ちゃんと出来てなくて、ほんと、いつ見限られてもおかしくないって…思って、でも、その、とりあえず、これから…そちらにお伺いしてもよろしいでしょうか…』
 最後は取引先に話すような口調になりながら独歩がまくし立てる。
 「あ、はい、どうぞ」
 勢いに押されて反射的に肯定してしまった。
 『じゃあ、あと5分…くらいで行くから、待ってて』
 そう言うや否や切られる電話に目を丸くする。
 5分って早すぎないか。もしかして、こちらに向かいながら連絡しているんだろうか。断ったらどうするつもりだったんだ。
 様々な思考が飛び交いつつそっと視線を落とすと、明らかに今から寝ますよという格好の自分がいる。
 せめて、せめてもう少し可愛い部屋着に着替えなくては。慌てて立ち上がりクローゼットへ駆け込む。
 きっと、ドアを開けた瞬間に彼から謝罪の言葉が羅列されるんだろう。
 口を開く前に鍵を手渡したらどんな顔をするか、試してみようではないか。

 急いで着替えて鍵を手を持つ。本当はストラップなども選んで付けたかったが、致し方ない。
 そわそわと名前が室内を行ったり来たりしていると、インターホンの音が静かな空間を切り裂いた。
 画面には、乱れた髪のまま肩で息をしている独歩が映っている。
 「どうぞー」
 出来るだけ明るい声色で応答し、解錠ボタンを押した。
 上がってくるまでもう少し、玄関で待っていると共用廊下を歩く音が聞こえる。恐らく深夜という事を気遣ってだろう、足音は控えめだ。
 先に扉を少し開けて顔を覗かせる名前に気づいたのか、軽く目を見開いて歩く足を早めた独歩を出迎えた。
 「こんばんは」
 「…こんばんは。あの、今日は…」
 喋り始めようとする彼に、自分の口元に持ってきた人差し指で静かにするようジェスチャーする。途端に口を噤んで頷く独歩を見て、素直な人だな、と緩く口角が上がってしまった。
 「どうぞ」
 「お邪魔します…」
 リビングまで案内して彼をソファに座らせた上で、隣に腰掛ける。今更ながら、鍵を渡すという行為に緊張してきた。
 「あの、独歩さん」
 「…っ、はい…いや、待って、待ってくれ…別れたくない、です…」
 思わず手に持っていた鍵を落としそうになった。そうだ、合鍵を渡すことに集中し過ぎて、あの不穏なメッセージの誤解を解くのを忘れていた。名前が口を開こうとするが、独歩が言葉を発する方が早かった。
 「電話でも言ったけど、俺、彼氏らしい事ちゃんと出来ないし、そもそも約束破ってばかりで、名前ちゃんに迷惑かけて…ほんと、何でこんな俺が、恋人なんだって思うよな…俺もそう思う。俺だったらまず付き合わない…でも、その、俺は…本当に、名前ちゃんの事が好きで、ずっと一緒に居たくて…お願いだから、嫌いにならないで…俺の事、捨てないで…ください」
 こちらが泣きたくなるような、喉の奥から絞り出すような声でつらつらと言葉を落としていく独歩に、名前の胸が締め付けられる。
 「捨てるだなんて、絶対しない」
 名前が語気を強めて言った言葉に、独歩の瞳が潤んでいく。
 「独歩さん、手を出してください」
 真剣な表情でお願いするとおずおずと右手を差し出す独歩に、こちらの右手も重ねる。
 ゆっくり離すと、彼の手に鍵だけが残った。
 「…なんだ、これ…?」
 「うちの合鍵です」
 ぽかんと口を開けている独歩に、単語だけで返すと、更に意味が分からないというような顔をされた。何となく気恥ずかしくて、名前は視線を独歩の手にある鍵に落としながら謝った。
 「紛らわしい文章送ってすみません。独歩さんが忙しいの知ってるし、そのせいで嫌いになったりとかはしないんですけど、会えないのやっぱり寂しいので…合鍵渡そうと思ったんです」
 だから、と名前が続けようとした途端、彼の掌に雫が落ちてくる。驚いて顔を上げると、独歩の瞳からはらはらと涙が零れ落ちてきていた。
 まるで、青色の瞳が溶け出したように溢れるそれに、慌てて自分の袖口を押し付ける。
 「ど、独歩さん?!どうしました?!」
 拭っても拭っても流れ出る涙に、このまま彼の瞳が溶けて無くなってしまうのではないかという錯覚に陥る。
 「え、なに、ど、どうしようどうしよう….泣かないで下さい!」
 「無理…無理だ…こんな、こんなことされて、何で、いつもそうだ、俺ばっかり嬉しくて…幸せで、俺は、名前ちゃんに何も返せてないのに、か、鍵なんて…う、嬉し過ぎて、無理…」
 どんどん流れていく涙の所為で、独歩の顔に水の筋が出来てしまっていた。自分で作っておいて何だが、予想を遥かに超えるリアクションで対処に困る。とりあえず、自己評価が地面にめり込むほどに低い彼を抱きしめて背中をさすった。
 「何も返せないなんて事ないです。私も、独歩さんがいるお陰で楽しいし、幸せなんです。一緒に居たいから、合鍵も作りました」
 ゆっくり言い聞かせるように話すと、独歩が名前の背中に腕を回してくる。徐々に力が強くなっていくが、苦しくはない。
 「…すき、好きだ…大好き」
 うわ言のように呟かれる言葉に、一気に名前の頬が熱を帯び始める。抱きしめていても、手は鍵を落とさないようしっかり握っているのだろう。
可愛い人だ、と思った。
 「私も好きです」
 その言葉と共に、こちらも抱きしめる力を強める。
きっと離す頃には、彼の少し不器用な笑顔が見れるだろう。

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