小説 | ナノ



▼タイムリミット(幻太郎)

 カレンダーを死にそうな目で見つめること10分、未だに先生からの連絡は来ない。
 夢野幻太郎の編集担当になってから、もうすぐ1年が経とうとしている。しているのだが、彼はデッドラインギリギリに原稿を出すものだから名前その度に痛む胃と戦っているのだ。
 最近はパソコンで打ってメール送信、なんて作家が増える中、彼は紙の原稿で提出する。郵送でももちろん構わないが、会社と夢野の自宅が近場であるため取りに行った方が早い。そもそもこの日程で郵送されたら逆に困る。
 「苗字、そろそろ行ってこい」
 「はい…」
 編集長からの声掛けに力なく答えて、事務所を出た。

 「夢野先生!進捗いかがですか!」
 好きに入っていいと渡された合鍵を使い、扉を開ける。中にはのんびりと湯呑みを煽っている夢野がいた。
 「おや、今回は来るのが早いですね」
 湯呑みを置いたかと思えばまさかの言葉が取り出して来た。名前は震える拳を懸命に抑える。
 「早くないんですよ夢野先生。ご存知かと思いますが、締切は明日です。本日までご連絡がないので伺いました。もう一度言いますが、進捗どうですか」
 意識して極力丁寧に話しかけると、彼が手元の原稿を一枚持ち上げた。
 「全くの白紙です」
 「…はあ?!」
 名前が思わず上げた声に満足したのか、くすくす笑うように声が落とされた。
 「まあ、嘘なんですけどね」
 「ほんと、心臓に悪いんでそういう嘘はやめて貰っていいですか」
 机に突っ伏す名前を楽しそうに眺める作家先生に言葉は届いているんだろうか。頼む、勘弁してくれ。
 「実際、あとどれくらいでできますか」
 思考を素早く切り替えて体を持ち上げると、彼が少し考え込んだ。
 「そうですね、今夜寝ずに仕上げれば夜明けまでには」
 ぽつりと言われたそれが本当の進捗だろう。名前は頷き立ち上がった。
 「分かりました。では、いつも通りこちらで待たせて頂きます」
 最初の数ヶ月はちゃんと余裕を持って原稿を上げていた彼が、どうしてこうなってしまったのか分からない。自分のことが気に食わないならはっきり言って欲しいのだが、そう言った話題は登らない。
 「何か食べましたか?」
 「いいえ、何も」
 笑顔を崩さない夢野の顔をじっと見つめる。相変わらず嘘か本当か分からないことを言う人だ。ただ、今までの経験則から言って本当に何も口にしていない可能性が高い。名前は1つ溜息を零して台所へ向かった。
 「適当な物しか作れないですよ」
 「いつもすみません」
 絶対悪いと思ってないな。振り向くと、変わらず笑顔を浮かべている。
 「すみませんと言うのなら、原稿早くあげて下さい」
 この顔立ちの良さで丸め込まれた人は何人いるんだろう。騙されないぞ、と言う意志を固めて両袖を捲った。
 出来れば作業をしながら食べてもらいたい。そんな理由で作るのは大体おにぎりになってしまう。いつも文句は言われないので、まあ良しとしよう。
 3つほど皿に乗せて運ぶ名前の耳には紙にペンを走らせる音しか聞こえない。
 「先生、おにぎりです」
 「ありがとうございます」
 机の横に置きながら声をかけるも夢野の視線は原稿から動かない。
 これだけ集中しているなら問題ないな。
 名前は静かに部屋を出て、今に腰掛けた。手に持った携帯へ素早く文字を打ち込み、編集部へ送信する。
 「頼みますよ、夢野先生」
 呟いた独り言は、誰の耳にも入ることなく部屋に溶け込んだ。

 「名前さん、起きてください」
 体を揺らされて名前の意識が急に浮上する。目を開けると、視界いっぱいに夢野の顔が現れた。
 「うわっ」
 驚いて顔ごと横に逸らすと、楽しそうな声が聞こえてくる。
 「どうしました?」
 どうしたじゃない。この人は自分の顔の良さを分かってやってるのか。心臓に悪いなんてもんじゃなく、口から内臓が飛び出たらどうしてくれる。
 「…何でもないです。原稿出来ました?」
 口に出すのは癪なので不機嫌を装って話題を変えた。彼の手に持っている紙の束が答えだと思うが、あえて手を出して催促する。
 「はい、こちらに」
 手渡された束を簡単に捲り、全てに文字が書かれている事を確認した後、出来るだけ慎重に鞄に入れた。大切な原稿に皺など作ってしまったら大変だ。
 「ありがとうございます。では帰って推敲します」
 立ち上がる名前に続いて玄関まで歩いてくる夢野に、伝え忘れたことがあったと思い出す。
 「夢野先生、もし担当変わるなら誰がいいとかあります?」
 「…はい?」
 あまりにも夢野先生が原稿を落としそうになるので担当交代の打診が来ていること、一応希望があれば通るか分からないが伝えておくこと。玄関先で訥々と喋る名前に目を丸くする夢野へ、ちゃんと聞いているかと首を傾げる。
 「あの、先生?」
 「…少し、考えます」
 名前が声をかけると、我に帰ったように瞳に光が宿る。そのまま視線を泳がせていたが、帰ってきた言葉はいつもの彼らしくない、頼りない声だった。
 「申し訳ないですが、まだ暫くは私が担当ですのでよろしくお願いします」
 「…わかりました」
 彼の担当は嫌いでは無かったが、上からの指示なら仕方ない。噂によると私が担当になってから原稿の上がりが遅くなったらしいので、会社として当然の処置である。
 失礼します、と言って帰る名前の後ろ姿を見つめる夢野の思案顔は、誰にも見られることは無かった。

 『原稿出来ました』
 職場の携帯に予想外の連絡が来た名前は、目玉が飛び出るような衝撃を受ける。
 あの先生が、締切の1週間も前に原稿を上げただと…?
 慌てて支度をして彼の自宅へ急ぐ。
 玄関に着いた名前を出迎えたのは、朗らかな笑みを浮かべた夢野だった。
 「明日は嵐でしょうか…」
 「開口一番に中々言いますね。とりあえず上がってください」
 夢野に促された名前が家の中へと足を踏み入れる。相変わらず生活感がない室内だ。
 「…今まで、すみませんでした」
 廊下を歩いていると、前からぽつりと声が聞こえてくる。
 「え?なんですか?」
 「名前さんの反応が面白くて、つい揶揄ってしまって」
 どうやら謝られているらしい。しおらしさが逆に怖いと思うのは疑いすぎだろうか。
 そして揶揄うとは、何処から何処までの行動の事を言っているのだろう。
 「担当、変えないでください」
 こちらを振り向いた視線に、縋るような感情が見えた気がする。
 「や、変えないでって言われても。私の一存では…とりあえず伝えておきますね」
 困った。こう言う返しが来るとは思ってなかった。名前の言葉に満足そうに頷いた後、原稿を渡される。
 「名前さんが担当じゃなくなったらそちらの仕事は断る、と伝えてくださいね」
 「それは困ります!」
 売れっ子作家を手放すわけにはいかない。焦って名前が夢野の袖を掴んだ。
 「…嘘ですよ?多分」
「多分?!」
 やはり、私は彼に振り回され続ける運命なのか。
 あまり嫌だと感じないのは、彼の嬉しそうな顔を見るのが案外好きだからなんだろう。

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