小説 | ナノ



▼駆け引き上手(月島)□

 「何年この仕事やってんの」
 放たれた言葉と乱雑に置かれた書類を前に、殴りかからなかった自分を誰か褒めて欲しい。
 名前が書類を手に取り自席に戻ると、心配そうな目をした月島がこちらを見てくる。
 「大丈夫か?」
 気遣わしげな視線を前に小さく拳を握った。
 「大丈夫ですが、脳内では右ストレートが炸裂してます」
 握った拳を少し上げた名前の腕を、そっと月島に降ろされる。
 「よく我慢したな」
 手伝おうと申し出てくれる彼に、慌てて両手を振って拒否した。
 先日も手助けしてもらったばかりで、何度も迷惑はかけられない。
 「1人で頑張ります」
 入社時から指導担当として面倒を見てくれた月島は、指導担当を外れてからもこうして名前を気にかけてくれる。なんとも親切な先輩である。
 しかし、いつまでたっても世話の焼ける後輩では立つ瀬が無い。彼に好意を抱いている名前としては、せめて同じラインに立って仕事をしたいのだ。
 「そうか。じゃあ頑張れ」
 そう言いながら手渡されたのは缶コーヒーで、まだ冷たいそれが先ほど買われたものだと気づく。
 「ありがとうございます」
 そういうさりげなく優しいところも好きなんです、なんて今の自分には口が裂けても言えない。

 カチカチとマウスを動かして何度も中身を確認し、問題ないと分かった頃には職場に数名しか残っていなかった。どうやら月島も何か作業があったようで、先ほどの名前と同様にマウスを連打している。
 真剣にパソコンと向き合っている彼の横顔をこっそり見つめていると、こちらに少しだけ顔を向けた月島と目が合ってしまった。
 「終わったのか?」
 「はい、なんとか」
 パソコンの電源を落とし、帰宅の準備をする名前に月島から声がかかる。
 「俺も終わった」
 見ると、彼のパソコンも画面が真っ暗になっていた。
 「じゃあ途中まで一緒に帰りましょう!」
 月島の隣にいる時間がもう少しだけ長くなると思うと、自分の弾む声が抑えられなかった。

 駅までの道のりを2人で歩くのはこれが初めてではない。今思い返すと、自分が残業している時はよく共に帰路に着いている気がする。
 「月島さんってどうしてそんなに優しいんですか?」
 車が行き交う交差点を通り過ぎたところで思わず口を突いた言葉に、月島が立ち止まる。
 実は名前が彼の横顔を見た時にパソコンの画面も目に入ってしまっていた。
 締切が大分先のデータが所狭しと映し出される画面を確認していた月島の真意が読めない。
 残業している私を待っているんじゃないかなんて、思い上がってしまいそうになる。
 「ただの後輩にこれだけする男だと思うか」
 そんな言い方されて、期待しない女がいないことなんて分かっている癖に。

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