小説 | ナノ



▼ガラスの靴なんて履いてない□

 やっと飲み会が終わった。上司の手前帰ると言い出せず、終電に駆け込むように乗り込む。
 電車内は名前と同じく飲み会帰りであろう人たちで席が埋まっていた。
 自分の降りたい駅まであと10分はかかるだろう。手すりで体を支えるように立ち、ぼんやり流れる風景を眺める。
 今頃彼は寝ているはずだと、連絡を取ろうと持ちあげた携帯をそっと鞄の中に仕舞った。

 駅構内から出た途端、柔らかい風が頬を撫でる。梅雨も明けいよいよ夏本番といった所か、程よく酔った体には心地よい風だ。
 鼻歌でも歌い出しそうな気分で名前が一歩踏み出した瞬間、バキリと足元から音が鳴った。
 途端に両足のバランスが崩れる。
 「うわっ!」
 そのままの勢いで前のめりに転んでしまった。
 あまりの恥ずかしさに勢い良く立とうとするも、鈍い痛みに蹲ってしまう。
 よく見ると、ストッキングが破れている上に名前の膝からは血が出ている。
 さっきまでの上機嫌が一気に霧散し、自分の視界が涙で歪むのが分かった。
 「何をしているんだ」
 悲観に暮れている名前の頭上に、聞き覚えのある声が落とされる。顔を上げると、呆れた表情でこちらを見ている鯉登と目が合った。
 「なんで…」
 「遅いから迎えにきた」
 驚いている名前に淡々と答える彼は、どう見ても恋人の鯉登音之進である。
 名前の足元を見て状況を察したのか、背を向けてこちらにしゃがみ込んできた。
 「帰るぞ」
 神か。名前はヒールの折れた靴を脱ぎ、大人しく鯉登の背に体を乗せた。
 「ごめんね。重いでしょ」
 人一人乗せても危なげなく立ち上がる彼に声をかける。
 「お前1人くらい、なんて事はない」
 その言葉が真実であるように、鯉登はいつも通り歩き続ける。
 「しかしなんであんな所で転ぶんだ」
 ため息を漏らす彼は、きっと先ほどと同じような呆れ顔をしているんだろう。
 名前は思わず言い訳がましく口を尖らせる。
 「ヒールが折れたんだよ…」
 手に持っている靴を鯉登の前で振った。
 「鯉登くんが来てくれて良かった」
 こんな靴と足ではそう遠くない自宅にも帰れなかっただろう。
 感謝の気持ちを込めて思い切り抱きしめる。
 「わいはおいが居らんとだめじゃな」
 彼の呆れたような声に、少しだけ甘さが混じった気がした。

▼back | text| top | ▲next