小説 | ナノ



▼17

 「かった………?勝ったー!」
 1人自宅でペンライトを振り回す不審者は、あまりの出来事に叫び声を上げた。
 画面の向こうでは心身ともに疲弊してるであろう3人が、それでも嬉しそうな顔で笑っている。
 名前は感動で震える手を抑えきれず、無意味に腕を上下させる。
 すごい、すごい、すごい!
 頭の中がひとつの単語で埋め尽くされるような光景もつかの間、試合が終わってしまえば無常にもテレビ画面はただのニュース番組に変わってしまった。
 真面目な顔をしたアナウンサーが今日の出来事を告げているが、名前の耳には届かない。
 思わず横に置いていたスマートフォンを手に取り、お祝いの言葉を勢いのまま打ち込んで送信していた。
 今までの躊躇は何だったのかという程の素早い行動に自分でも驚く。
 でも、あれだ。お祝いの言葉貰って嫌な気持ちになる人なんていないし。
 送った後で自身に言い訳するような言葉をつらつら思い浮かべていると、手に持っているそれが突然震え出した。
 「え?」
 着信画面に燦然と輝く『独歩さん』の文字が目に焼き付いて離れない。
 「いやいやいや?なんで?だって今試合終わって…え、幻覚?」
 あまりの出来事に自分の視覚を疑う名前だったが、手に伝わる振動が現実だと訴えかけてくる。
 「もしもし?」
 釣られて震える手で通話ボタンを押し、耳元に持っていくとひどく慌てた声が聞こえて来た。
 『え、わ!す、すみません!急に、あの、一二三が…!迷惑おかけしてすみません!』
 何故ここで一二三の名前が出てくるんだろうか、と一瞬思ったがなるほど、きっと着信を入れたのは近くにいるであろう彼の親友なんだ。
 「あ、いえ、びっくりしましたけど迷惑ではないですよ」
 そもそも文字とはいえ先に連絡をしたのは自分だ。
 名前はそのまま通話を切ってしまいそうな独歩へ柔らかい口調で声をかける。
 折角掛けてくれたのだし、直接祝いたい。
 「さっき送ったんですけど、改めて優勝おめでとうございます!テレビで中継見てました」
 『あ、ああ…ありがとう、ございます』
 途端に勢いを無くした声でお礼を言う独歩の姿が目に浮かぶようで、名前は電話口に聞こえない程度の笑みを洩らす。
 『先生と一二三が頑張ってくれたので、勝てました。俺はやられてばっかりで…」
 どんどん下がっていく声音は、最後の方は聞き取りづらくなっていくが、それを断ち切るように名前は口を開く。
 「そんなこと無いです。もちろん神宮寺さんと一二三さんもとてもカッコよかったし強かったですが、独歩さんも頑張ってました」
 『お、俺も』
 「はい。独歩さんもです」
 全員で勝ち取った勝利なのだと、当事者にしっかりわかって欲しい。
 いつも自分は駄目だと悲しいことを言う彼に、そんな事無いんだと言いたい。
 自分の拙い言葉では伝わらないかもしれないが、せめて今日は、胸を張って自分たちは優勝したのだと思ってほしいのだ。
 『ありがとうございます』
 先程と同じ言葉だか数倍穏やかになった声に、少しは伝わったかな、なんて心の中で喜んでみる。
 「終わってすぐなのに電話ありがとうございます。美味しいカフェラテ作るので、またお店で会いましょうね」
 きっとこれから表彰されたり、帰宅したりするんだろう。もっと長く話したい気持ちはあるが、彼の邪魔にはなりたくない。
 名前が自分の言葉を最後に通話を切ろうとした瞬間、独歩がこちらに聞こえるギリギリの声でぼそりと呟いた。
 『…………好き、です』
 「……………………はい?」
 え、なに?何?
 蚊の鳴くような声でほんの微かに耳を震わせたそれに、思考が止まる。
 いや待て、何か聞き間違いをしたのかもしれない。そうだ。だって、今そんな話ししていなかったじゃないか。
 はは、自分の都合が良いように聞き取るなんて、私も随分能天気な頭をしている。そう、聞き間違いだ。勘違いだ。
 どくどくと早鐘を打つ自分の心臓も、電話の奥から聞こえる彼の親友が囃し立てるように上げる声もきっと勘違いーーー
 『…………え、あ?…お、俺………いま、なんて』
 独歩の戸惑うような反応で、自分の耳も頭も正常だと言うことが分かった。
 『す、すみません!すみません!』
 「あの、わ、私」
 言うのか、今、ここで。
 間違いでは無かったと分かった途端、ぐるぐる回る思考回路に舌がついていかない。
 しかし、呂律が怪しい名前に覆い被さるように、独歩の悲痛とも言える叫び声が反響した。
 『誠に申し訳ございません!』
 ぶつん。
 「………………………………え?」
 今日1番長い間を置いて出たのは、気の抜け切ったほぼ吐息だった。
 「き、切られた………」
 とんでもない。とんでもない男だ観音坂独歩。



 口が半開きになっていてもおかしくない。完全に間の抜けた脳内でする仕事ほどミスが多い。
 注文は間違えるわレジ打ちをトチるわで最悪の1日だ。
 名前は人気の無くなった店内で長いため息を吐く。
 原因はどう考えても昨日の独歩で、名前はほぼ寝れていない上に未だに思考を全て持っていかれている始末だ。
 折角上達したラテアートも崩れに崩れて逆に新しいアートになっている気がする。
 珍しく後輩も困惑しているが、流石におおっぴらに相談も出来ずとうとう退勤時間になってしまった。
 ふらふらとした足取りで帰宅の道を歩めば、街中のディスプレイに映し出される優勝のニュースが目に止まる。
 くたびれたスーツ姿によれた髪の毛、目元の隈はお世辞にも健康的とは言えない。
 それでも、自分には輝いているように見えるのだから重症だ。
 「なんか、段々腹立って来たな」
 寝不足の脳でずっと同じことを考えているが、言い逃げと言っても過言ではない独歩に怒りが湧いてくる。
 何となく握りしめた拳の向こうに、見覚えのありすぎる赤い髪が見えた。
 「あーーー!!!」
 思わず上がった大声に、該当の人物がくるりと振り返る。
 「あっ!」
 目を見開いて踵を返そうとする彼を、そうはさせるかと名前は全速力で駆け寄った。
 もう知らない。相手の都合なんて考えてやらない。
 逃がさないように腕を抱きしめ、独歩と目を合わせる。
 暫くは泳ぐ目線と格闘したが、諦めたように頭が下がった。
 「先日は、その…私の不用意な発言でご不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ございません」
 完全に取引相手への対応である。謝罪に淀みが無さすぎて慣れを感じさせるのが物悲しい。
 「不用意な発言って何ですか」
 湧いた怒りのまま、名前が問いかけると独歩はぐっと喉を詰まらせたように唸る。
 「その…す、好き、だなんて烏滸がましいことを言ってしまって、あの、本当に…き、気持ち悪いですよね。ただの客のくせに、優しくされたからって、笑いかけてくれたからって…こんな、こんな俺に好かれるなんて、ほんと迷惑ですよね…言うつもりは無かったんだ。ずっと、このまま…仲良くできたらって………あの、もう、近づきません。ごめんなさい。ごめんなさい……」
 最後は涙で滲んだような声を出してくる独歩に、渦巻いていた感情が緩やかに収まっていった。
 時折消える敬語が、彼も気持ちの整理がついていないのだと、思わず気持ちが溢れてしまったのだと言うことを物語っているようだ。
 徐々に力が入っていく腕を離したら、独歩は本当に名前と一切の交流を断つだろう。どんどん背けられていく身体で分かる。
 「私も好きです」
 それならば、自分が伝える言葉はひとつしか無い。
 「…………………は?え?…………幻聴か?この期に及んで俺は何て都合の良い脳内をしているんだ………」
 考えてることが全て口から滑り出ているし、それが昨日の名前と殆ど同じ思考で笑ってしまう。
 「幻聴じゃないので、ちゃんと聞いてください。私も、独歩さんのことが、好き、です」
 今度はしっかり聞こえるように単語を区切って伝える。
 「あ、う…ほ、ほんとに」
 一気に髪と同じ色に染まる頬が、大きく見開かれた瞳が、必死に全てを理解しようとしている。
 「はい」
 肯定の言葉と共に頷けば、独歩は持っていた鞄の中身を全部ぶち撒けてしまうのだった。






 店の扉が開き、簡素なベルが鳴る。
 「いらっしゃいませ」
 見慣れた彼はいつも通りカウンターに腰掛け、控えめに注文を口にした。
 名前はそんな彼の前に優しくソーサーとカップを重ねる。
 ふわりと浮かぶハートを模った白いそれを、今日も独歩は包み込むように両手で飲み干した。

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