願うだけでは始まらないから(mlsb/カート)


「なまえさんさあ、本当バカだよね」

後ろ手にトイレの鍵を閉める彼の声はいつもより低かった。
カチャン、と一際大きく響いた音に、私と彼の居るトイレの個室と世界の全てが隔たれた気分になった。
人間、余りにも驚くと声を上げることも出来ないものだと、今置かれている状況と反比例して冷静な自分が居る。
何処かから聞こえる換気扇のファンが回る音を耳にしながらそんな事を思う私は、彼の言う通り本当に馬鹿なのかもしれない。
けれど、この状況が全くもって飲み込めていない私には、そんな事しか考えられずに居た。
頭を擡げる事が出来ずにいる私は、自分の爪先の少し先にある彼の爪先とを眺めながら、今日一日のことを必死に思い出していた。

今日はいつも通りに出社して、社員の皆へ挨拶をして、少し他愛の無い会話もしたりして。
いつも通りであればそのまま仕事へ取り掛かるところであったが、普段と違うところを上げるとすれば、長く付き合っている恋人と入籍することとなったことを、皆へ伝えたことだろう。
伝えずとも、昨夜から嵌めている婚約指輪を何れは突っ込まれるのは目に見えていたし、今後は苗字も変わるのだから、下手に騒がせるよりも先に伝えようと思ってのことだった。
祝福される声に暖かい気持ちになりながら、その後の皆との会話は他愛ない話から婚約相手との話へすり替わった訳だが、迫る始業時間によって話もそこそこにまたいつも通り仕事をし始めた。皆も、目の前に居る彼も、私も。
そうして一つ仕事をひと段落させ、提出する報告書を小脇に抱えながら廊下を歩いていたところ、向こうから歩いてきた彼にトイレへと引きずり込まれてしまった。

一通り、今日1日のことを思い出しながら、私の何がきっかけで彼をこんなにも怒らせているのだろうと今一度考えたが、どうにも明確な答えは出てはくれなかった。
今になって指先が震えるのを止めようと思っても、体は全く言う事を聞いてはくれない。
指先一つでさえ、動かすのが憚られてしまう程、彼の纏う空気が重く鋭かった。

「聞いてる?なまえさん」
「…あ、あの、カートくん」
「朝のあれ、何」

人間の肉声に混じった機械独特の声によって張り詰めた空気に少し隙間が現れたような気がして、漸く私の口は声を出せた訳だけど、一際また重苦しい物を孕んだ声が心臓を震わせた。
朝のあれ、と言われたら婚約の報告くらいしか思い浮かばないが、それがカートくんを怒らせる原因なのだろうか。
だとしても、辻褄が合わない。
だって彼と私は同じ会社に務める社員で、同僚で、会話も皆と同じように他愛の無い話しかしたことは無いし、寧ろ無口な方なので会話自体少なかったかもしれない。
気軽に食事に行けるような仲でも無ければ、行ったことも無い。
マックスくんといつも一緒に居て、ゲームが好きで、仕事はしっかりとこなす、そんな風に私の目には見えている程度であった。
詰まるところ、そこまで親密な関係では無かったので、婚約の報告と彼の怒りがどうにも結び付かずにいた。

「黙ってないで、何か言ったらどうなの」

私の少し先にあったカートくんの爪先が、今度はくっ付いてしまう程の距離まで近付いて、影が色を濃くした。
半ば覆い被さる程の距離にいる彼から、香水の匂いがする。
良い匂いだな、このような状況で無ければそう思っていたであろうが、今はそんな余裕は無い。

「わ、からない、何、怖いよカートくん」

仮にこの時間が長く続いたとして、それが何時間何日間であっても、答えは出てきそうになかった。
指先の震えが体まで伝わり、背筋を這い上がる恐怖心で心臓がバクバクと拍動を速めている。
深く息を吸って落ち着きたいのに、体は言う事を聞いてくれず、浅い息を繰り返すばかりだった。
カートくんが今何を考えていて、何を思っていて、どんな顔をしていて、何一つ分からない。
そんな私を見兼ねてなのか、彼は小さく溜息を吐いた。

「………、…」

呟くように放たれた声はとても小さくて、こんなにも近い距離に居るにも関わらず、彼がなんと言ったのか聞き取ることは叶わなかった。
ただ、変わらずある怒気の中に、ほんの少し淋しさのような、そんな感情が現れているような気がした。
彼の機械の手が、私の白くなってしまった左手を取る。
2人の影が重なり合う中、薬指に嵌められた指輪はぼんやりと輝いていた。
カートくんの指がまるで感触を確かめるように掌をなぞり、薬指の付け根からやや上にある指輪に辿り着く。
カチ、と僅かに指輪と機械の指が触れる音がして、まるで爪で引っ掻くように指輪をなぞると、ゆっくりとそれは私の指から外された。
まだ私の指に馴染みのない指輪はいとも簡単に離れてしまって、彼の手中に収められる。

「いらないでしょ、これ」

ぎゅ、と指輪を包み込むように手を握ったカートくんの放った言葉に、ゾッとして思わず顔を上げる。
予想よりも近い距離に彼の顔があって、今日初めて視線が合ったカートくんは、その暗い眼差しを真っ直ぐに私へ向けていた。
一瞬呆気に取られそうになるが、直ぐに指輪の事を思い出して、固く閉じられている彼の手を掴もうとする。
私の焦りようとは正反対に、彼は至って冷静に握った手を頭上へと挙げて、もう片方の手は私の首へと添えられた。
人間からサイボーグへと変わったその腕は、生身の人間の握力など比にならない。
ギチ、と締められた冷たく硬い指が皮膚と肉に圧迫感を与える。
このまま彼が少し力を加えれば、嫌な想像をしてしまい、再び私は指先一つ動かせなくなってしまった。
息をするのに胸が上下することさえ、抑えたい程。
私の言動、行動、何が彼を刺激してしまうか、考えたくなかった。

「…そっちの方がなまえさんは可愛いよ」

カートくんが少しだけ目を細めて、頭上に挙げていた手を私の背後へと回した。
そうしてポチャン、と背後から水音が聞こえると、続いてトイレのレバーを回す音、水が渦を巻いて流れる音が耳に届いた。
ああ、指輪、流されちゃったんだ。
悲しさなのか恐怖なのか、心の内を掻き回して止まない物が処理しきれずに溢れた涙が、彼の指に掬われる。

「なまえさんがこれからすることは、そのクソ野郎とはお別れして、全部忘れて、今日の夜俺とデートすること」

できる?言いながら、カートくんが額を合わせてくる。
先程とは打って変わって酷く優しい声色の筈なのに、首に添えられた指はしっかりと頸動脈を捉えていて、何一つ私に安心感を齎そうとはしていなかった。
震えて仕方ない口から出た言葉に、彼の目元がふわりと弛む。
これから送るのであろう私の人生に、私は為す術も無く、目を閉じることしか出来なかった。


"俺の方が、ずっと好きだった"




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