手段なんかない(mjbk/赤い傘の男)
ザーザーと朝から止まない雨は地面の至る所に水溜まりを作っていたが、避けて通る程の余裕も無く私は足早に自宅へ向かっていた。
差したビニール傘の柄を握る手に無意識に力を入り、指先が白くなる。
靴が濡れることさえも気にする余裕は無かった。
背後から聞こえるもう一つの足音を少しでも遠ざけたい一心で、必死に歩みを進めていた。
あの日、雨の日にしか現れないと噂の幽霊団地に行って以来、何か良からぬ物を連れてきてしまったようで、それは私を酷く悩ませているのだ。
元々近くに例の噂がある場所があるのは知っていたが、そういった類のものを熱心に信じているたちでもなく、かと言って態々正体を確かめるような気概も持ち合わせては居なかった。
だからあの日友人に誘われた時は全く乗り気では無かったのだが、半ば強引に連れ出されたのが運の尽きだった。
本当に、行かなければ良かったと、後悔しても遅いのに。
あの日、楽しそうに廃墟と化した団地を懐中電灯で照らしながら進んでいく友人を後ろから眺めながら、早く帰りたいと考えていたとき、ふと背後に気配のような物を感じて振り向いた。
明かりも無く真っ暗闇が続く廊下は、今にも吸い込まれてしまいそうな程だったのを覚えている。
そうして気配の正体を確かめようと目を細め廊下の先を見詰めた時、そこには誰かが居た。
一瞬ゾッとしたのだが、瞬き一つでそれは消えてしまって、結局は気の所為で片付けてしまったのだけれど。
それ以来、気付くとどこからともなく足音が付いてくるようになってしまったのだ。
一連のことを一緒に幽霊団地へ行った友人へ相談したが信じてくれず、まともに取り合ってもくれない。
そんな友人に苛立ちさえ感じてしまったが、私が逆の立場だったら同じ対応を取っていたかもしれないと思うと、それ以上縋ることは出来なかった。
相変わらず背後から聞こえる足音は、あの日の記憶を鮮明に呼び起こして良からぬ想像が私の頭を埋め尽くす。
あのたった一瞬でも、その存在は異様だったと言える程、強烈に私の記憶に刻まれていた。
赤い髪、赤いコート、赤い傘。
暗闇の中に佇む全身赤で埋め尽くされていたそれが、今私の背後から付いてきているなど考えると、恐怖が体を支配して足が凭れてしまいそうになる。
こういう時に限って、周りに人気が無いのも余計に恐怖心を煽られた。
「(!あの曲がり角を曲がれば、もう直ぐ家だ)」
見慣れた帰り道、いつも通る道。
いつもの曲がり角。
そこを曲がれば自宅まで数分という所まで辿り着いた。
恐怖でいっぱいになっていた心がほんの少し和ぐ。
靴は中までぐっしょりと濡れてしまっているし、半ば駆け足でここまで来たものだから疲れもある。
もう、早く家で休みたい。
泣きそうになりながら足早に曲がり角を曲がった。
その瞬間、私の足はピタリと止まってしまった。
目の前に広がる景色に、息が詰まって耳鳴りがする。
曲がり角を曲がった先、自宅がある筈の場所に、あの日の幽霊団地が立っていたのだ。
頭の中が、何故、どうして、と答えの出ない考えが埋め尽くす。
そんな事は有り得ないと分かっていながらも、見間違いであって欲しいと何処か懇願するような気持ちで、ゆっくりと歩みを進めた。
一歩一歩近づく度に、私の心を踏み躙るように、その幽霊団地は消える無くそこに佇んでいる。
いよいよ団地の前まで辿り着いた時、私は打ちひしがれてしまって、呆然と目の前の受け入れ難い光景を見上げていた。
そんな私を嘲笑うように、あの日と同じように、雨に濡れた幽霊団地は不気味な雰囲気を醸し出しながら私を見下ろしている。
ふと、ザーザーと鳴り止まない雨音に混じっていた筈の足音が、ピタリと止んでいた事に気付く。
「(あ、れ)」
一瞬、周囲の音が途切れた気がした。
何か、誰かの気配が背中にぴったりと付くような形で立っているのが分かる。
後ろへ視線をやらずとも、じっとりと重く嫌な空気を漂わせるその存在は、私をじっと見下ろしているのが伝わってきた。
体の奥底から来るような震えが全身を襲う。
気付けば持っていた筈の傘を落としてしまっていたようで、傘が落ちた音が異様に辺りに響いたような気がして、大袈裟な程肩が跳ねてしまった。
足元に先程まで持っていた傘が転がっているのに、私の体を雨が濡らすことは無い。
傘と、私の濡れた靴と、その後ろに少しだけ赤いコートの裾が見える。
心臓が痛い程鼓動を早めていて、耳のすぐ傍でどくどくと音がする程だった。
背後の何かが動いた気配がすると、爪が赤く彩られた白い大きな手が伸びてきて、ゆっくりと私の体をなぞりながら首元へと辿り着いた。
冷たく、体温を持たないその手は簡単に私の首を捉えると、ゆっくりと顎を上へと向かせる。
視界が徐々に上へと上っていく反面、私の頭は見たくない、見てはけないと警鐘を鳴らしているのに、体は全くと言う程言うことを聞いてくれない。
視界に赤い傘、それから赤い髪が写り、そうして生気のない両の眼が私を捉える。
「"見付けた"」
赤い彼は何か言葉を発した様だったが、それは私が今まで生きてきた中で聞いた事のない言語で、何を言っているのかは全く分からない。
全くもって得体の知れない人物と、たったの一言で言葉も通じない事も加わり、私は地の底に突き落とされたような気分だった。
薄い唇は嫌な狐を描いていて、私を見下ろすその両目は体の底から震える程に暗かった。
けれどその目元は何処か嬉しそうで頬が緩く上がり、細められている。
比例したその様が余計に彼の不気味さを助長させていて、私は恐怖から目が離せなかった。
次に何をして来るのか、何をされるのか、私は生きて帰れるのだろうか。
指1本でさえ動かすのに躊躇しているのに、頭の中は次から次へと思考を巡らせている。
男の冷たい指が唇を撫ぜる。
「"あなた 私 一緒"」
「"あなた 連れていく"」
男が先程よりも笑みを深めた様は、息が詰まる程に私に恐怖を与えた。
顎に添えられていた手がゆっくりと私の目元を覆い、視界が真っ暗になる。
同時に私の意識も遠のいて行き出した時、咄嗟に振り絞られた私の声が、誰かに届いていることを願って止まない。
もう、雨音は聞こえない。
(そこには傘が一つだけ)
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