夏の戯れ


駅からの帰り道、余りの暑さに朦朧とする。蝉ノイズがその朦朧に拍車をかけていることは言うまでもない。空は雲ひとつない真っ青な――だったらいっそ涼しげで良かったかも知れない。ところどころに浮ぶ雲の白が眩しくて疎ましい。汗が背中を伝っていくのが分かり、誰にともなく不快を表情で表したいけど、顔の筋肉すら動かすのがひどく億劫である。

こんなときに限って、大荷物だ。自分の鞄の他に、一つだけだけど、その一つがとんでもない苦行を私に強いている。大きくまん丸に実った西瓜、取引先の小さな事務所のおじいちゃん課長が持たせてくれたものだ。親戚から沢山貰ったとかで、何故だか孫へ土産を持たせるみたいにくれたのだ、立派な西瓜で、買ったら高いだろうに、つまり、ラッキーではあるのだけれど。西瓜は好きだし嬉しいけれど、生身の西瓜を両手で抱えて歩くのはちょっと頂けなかった。せめて袋に入れて欲しかった。帰りの電車で汗まみれのOLが手一杯に生身の西瓜抱えてるなんてちょっと居た堪れなかった。しかも今日は先方の都合で日曜に出向いたのだ。おかげで電車の中で、休日をデートで過ごすらしい爽やかなサマーラブな恋人達に、ちょっと面白いものを見たような目をされた。

そんなこんなの過去数時間の走馬灯が浮び出して、いよいよ私はアスファルトに溶けてしまうんじゃないかと思う。ああ、目の前のアスファルトから湯気がゆらゆらと出ている、私の家はこの坂を延々と上った先にある。気休め程度に入る影も何処にもない坂道、私は太陽に向って上って行かねばならない。そんなの絶対無理無理、イカロスになんてなりたくない。私はここでジ・エンドさよならだ。蝉ノイズが心なしか遠ざかってゆき、目の前はゆらゆらゆらゆら。これって何て言うんだっけ、ええと、蜃気楼じゃなくて、逃げ水だっけ。ああ、陽炎――?

「おお、名前ちゃん、いいもん持ってんね」

茹だるような暑さ、夏そのものにまさに溺れる寸前、掬うみたいに、呑気な声が私を呼び止めた。

「いやー、暑いねー」

この過酷とも言える暑さを微塵も感じさせないような、呑気な声、呑気な格好、よれよれのTシャツとハーフパンツに加えてトロピカルな色のビーサン、それでも私には、

「…」
「何?どしたの」
「い、石神さぁーん!」

天からの使いとしか思えなかった。



「あの、助かりました、ていうか、本当にすみません…」
「いいよー西瓜食べれてラッキーだし」

半泣きの私に驚きながらも、石神さんは西瓜を持ってくれ、さらには直ぐ傍にある自宅に私を招いてくれた。というわけで、先程までいい大人ながら半泣きだった私と、そんな私を救ってくださった石神さんは、小さな庭を臨む縁側で水を張った金盥に足をつっこんで涼んでいる。エアコンが壊れているらしく、涼むものといえばそれと扇風機しかないらしい。よくもまあそれでこの暑さの中生きていけるものだなと関心してしまうが、なかなかどうして、涼やかで気持ちいい。石神さんはよく冷えた麦茶まで出してくれた。全くなんという極楽浄土だろう。傍らでは氷を張った盥(木製のやつだ。何か珍しい)に西瓜を入れて冷やしている。

石神さんは同じ町内会の人で、もう結構長い付き合いになる。私はあの忌ま忌ましい坂の先にある小さなアパートに大学の頃から住んでいる。忌ま忌ましい坂、といっても、確かに夏の頃はそう思えて仕方がないのだが、住む分にはちょっと見晴らしがよくて気に入っている。私がお世話になっている大家さんはかわいらしいおばあちゃんなのだが、そのおばあちゃんと石神さんは何でか知らないけど仲良しだし、うちの町内はお年寄りや子供のいる家族が多くて、地域交流の催しもしばしばあるので、そうした中で自然と親しくしてもらうようになったのだ。

「しっかしこんな西瓜どっから抱えてきたのさ」
「えと、今日取引先に行ってそこで頂いたんですけど…普通に電車に乗って帰ってきました」
「まじ?すげー注目されたっしょ」
「…居た堪れなかったです」

他愛ない会話をしながら、水の中の足をふよふよと動かしてみる。ついさっきまでアスファルトの上で溶けてしまいそうだったのが、嘘みたいに涼しくて気持ちいい。背中には、ちょっと年季の入った扇風機が温い風を送ってくれて、さっきまで攻撃的だった夏が、やさしく漂っている。全く、なんという極楽浄土。
足を動かすと水面がゆらゆらと波打つ。それが面白くて小さく波をつくっていると、石神さんも一緒になって水面を揺らし始めた。一つの金盥に大人が二人、足を突っ込んで、子供みたいだ。だんだん遠慮がなくなって、ついには水しぶきをあげてはしゃぐ。まだまだ弱まらない夏の陽射しが反射して綺麗だ。何だかほのぼのとして、私はうれしくなる。

「あはは、何か、童心に帰りますね!」
「そう?俺は何かちょっとエロい気分になった」
「…は」

石神さんは、いつもの飄々とした、読めない顔をしていて、私はといえば、多分おそろしく間抜けな顔をしていたことだろう。全然気にしてなかったのに、石神さんとの距離が、急にものすごく近くに思えて、だけど金縛りにあったみたいに、何故だか私は動けない。

何秒にも何時間にも引き伸ばせそうな一瞬の後、道の向うから子供たちのはしゃぐ声が聞こえてきて、はっとする。

「さて、そろそろ冷えたかね」

石神さんはそう言っておもむろに立ち上がってサンダルに足を突っ掛けると、西瓜を持ち上げた。

「お隣さん、家族多いから。皆で食べようぜ」



それからお隣さん宅で、おじいさんおばあさんと肝っ玉母さんと四人兄弟の小学生と一緒に西瓜を平らげた。みんな美味しい美味しいって言って食べてくれたけど、私は何だかどきどきして、全然それどころではなかった。





101017

石神さんは面積狭い変な間取りの一軒家に住んでそうという妄想から生まれた話。
変質者くさくなってしまったのは何故。ガミさんは図らずも人を油断させてしまう空気があると思う。それを利用するときもあるし、それで苦労することもありそう。そんな季節外れの話。



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