恋と酩酊


昼間見た光景が頭から離れない。

本当に偶然、街で彼女を見かけた。数人の男女、大学の友達だろうか。ありふれた光景、楽しげな、青春という言葉がぴったりとあてはまる。
そんなに近くだったわけでもなく、俺が彼女に気付いたのは殆ど奇跡的で、だから勿論、彼女は俺に気付くことなく。

ああ、何だかもやもやする。

彼女の隣を歩き楽しげに談笑していたのが男だったとか、それに嫉妬したとかそんなのではない。

ただ、何だか、それが正しい姿なのかなあと思ったのだ。



「丹さん、荒れてるね」

石神に言われて、ああそうか俺は荒れているのかと思う。自分のことなのによく分からなくなっている、相当きてるのかもしれない。酒のペースが速いのは自覚してるけど。

「べぇーつにぃー」

歳も近く仲の良い仲間に対しては自然、甘えた態度も取りたくなる。反面、気付かれたくない気持ちも持っている。

「スルーしろよ石神。どうせ惚気話になんだからよ」

堺が鬱陶しそうに言う。ほら、これがいやなんだよね。

「あ、丹さんの彼女って、大学生だっけ?」
「ちょ、ガミさん」

面白そうに言う石神と、それを窘めつつ何だか気遣うような目で俺を見る堀田。あー、堀田、おまえほんと良い奴な。
…。

「うう、聞いてよ堀田くーん」


別に大したことじゃないけど、ちょっと気にしてる。もやもやしたのが続いてる。それで、昼間のことを話したのだった。

「いやー、今朝親から電話かかってきてさ、別に大した用じゃなくて、まあそれはそれでよかったんだけど、結婚のこととかさ、それとなーく水を向けてくんのね。もう慣れたことだけどさー」

だからちょっとそういう気分だっただけだ。昼間見た彼女、同年代の友人と楽しげに歩いていて、きっとそれがあるべき姿。そういうふうに、彼女は沢山、これから恋をしていくのだ。自分と違って。
彼女が自分よりずっと若くて、自分は彼女からしてみればおっさんで、でも彼女はそんな自分を好きでいてくれる、自分は彼女に心底惚れている。それで、その先は?

「まあ俺らもこの歳ですからね」
「つーかそんなの今更じゃねーか」

そうそう、俺らの間じゃ出尽くした話題なんだけど。

「堺くん、厳しい」
「あ?」
「俺弱ってんだから、やさしくしてよー」

自分でも気持悪いと思う甘えた声で言うと、堺はデフォルトで刻まれてる眉間のしわを益々濃くする。見慣れたそれが何だか面白くて変な笑い声が出てしまう。

「あは、百戦錬磨の丹波選手、珍しくびびってんね」

丹さんを弱らせるなんてどんな子よ、今度紹介してよ。
石神がにやにや笑いながら言った。


結局その後もぐだぐだ酔っ払って、二軒目に行こうと外に出たらそのままタクシーに押し込められて、気付いたら自宅のマンションの前に立っていた。

家の前で鞄から鍵を出して、ふとそれを眺める。
革のキーホルダーは、付き合って初めてのクリスマスに彼女がくれたものだった。包みを開けた俺を窺うようにじっと見て、俺がさっそく鍵をつけかえると、ほっとしたようにへらりと笑った。

「いや、あの、好きな人にプレゼントするとか、初めてなので、」

普段はっきりと物を言う彼女が何だかしどろもどろで、かわいいと思った。

でも結局、そういうことなのだ。彼女にとって俺は初めて付き合う男で、だから彼女は俺を比べられない。いつか彼女が俺から覚めるんじゃないかって、そう思ってしまうだけ。俺のことを好きだっていう気持ちが、いつか知らない男に向っていって、そうしたら俺はどうしたらいい?いま、彼女が俺を好きでいてくれてるっていうのは、全然疑う気ないんだけど。
三十余年も生きてきて、火遊びみたいな恋もたくさんしたし、結婚を考えるような真剣交際もしてきた。そう、それなりにやってきたのだ。
でも、と思う。でも、ああ、今回は何だか、分が悪いのかも知れない。十代の覚えたての恋みたいに、どんどん好きになって溺れていくのが怖いし、それを自覚しているからなおさら怖くて、しかももう立派な大人なので、好きというだけで生きていける訳がないって分かってる。
何この不安?俺、今までにないくらい、恋しちゃってる!何これ!

何だか無性にいたたまれなくなって、鍵を握り締めたまま、ドアの前でうずくまる。手の中でちゃり、と鍵が鳴る。
使い慣れない鍵が一つ、鈍く光っているのをふと撫でる。自分の部屋の合鍵を渡したとき、じゃあと言って彼女から渡されたものだった。使ったことはない。
ああ、会いたいなあと無性に思った。


思って、気付いたら彼女のマンションの前に立っていた。

ああどうしようどうしようと酔った頭のまま何がどうというわけでもないのに無性に不安を抱えたまま、彼女の部屋の前に立つ。取り敢えずインターフォンを押してみるけど彼女は出ない。彼女が寝るにはちょっと早い時間だ、出かけてるんだろうか。
帰ろうか。電話しようか。合鍵を使ってみようか。さて、どうしようか。


どれくらいそうしてドアの前に突っ立っていたのだろうか。

「丹波さん?」

薄暗い廊下の向うから、夜遅い時間を気にしてか、小さく呼ばれた声だけど、何だかとても響いて聞こえた。

「あ、えっと、…おかえり」
「あ、はい、ええと、ただいまです」

何て言えばいいのか咄嗟に頭が回らなくて舌も回らなくて、自分で発した言葉が思った以上に頭が悪そうに聞こえて瞬時に後悔した。けど、応える彼女がちょっと嬉しそうなのが酔った俺の頭でも分かったので、少しほっとする。

「待っててくれたんですか?上がっててくれてよかったのに」

そう言って鍵を開ける彼女に安心して、同時にちょっと憎いと思う。だって、俺がもやもやしてるのを、一つも知らない顔で笑うんだ。いや、まあ、こんな余裕のない自分、知られたくないっていうのが本音だけど。


「連絡してくれれば、もっと早く帰ったのに」

今日、会えると思ってなかったから、びっくりしました。
そう言った彼女の声が、もやもやしてたのなんか全部忘れるくらい、やさしく響く。ドアをくぐって狭い玄関に二人、先に上がる彼女の背中に、気付けば抱きついていた。

「名前ちゃーん」
「わ、ちょ、何ですか!ていうか丹波さん、すごくお酒臭いんですけど」
「うーん」
「重い…」

彼女の背中にしがみついたままの俺、を引きずりながら彼女は短い廊下を進む。だらだらと足を動かす俺のせいで、ちっとも進まないんだけど。自分が今ものすごーく甘えてるなあと自覚して、でも何か、しあわせだからいっかと思う。

「名前ちゃーん」
「何ですか」
「俺のこと好きぃー?」
「…好きですよ」

髪の間から見える耳がみるみる色づくのを見て、どんな顔してるか見たくなって、彼女をぐるんとまわして正面から抱きしめる。

「ほんとにー?」
「本当ですよ」

もう、丹波さん飲みすぎです。と照れ隠しにぎゅうぎゅうしがみついてきて、結局顔は見えずじまいだ。でもしあわせだからこれもまたいっかと思う。

「じゃあじゃあ、俺と結婚してもいいとか、思ってるー?」
「思ってないです」

即答だ。しあわせなのと酔いが回っているのとで、ふわふわした俺の頭は一瞬で血の気が引いた。聞いてはならない答えを自ら導き出してしまった。ああ、ジーザス。時間が止まったみたいだ。むしろ止まれ。そしたら名前をずっと抱きしめたままでいられる。いやだ、離したくない。

「…丹波さんのばか」

真っ白になって固まる俺の腕の中で、少し身体を離して顔を上げて、眉根を寄せて、怒ったみたいに彼女が言う。

「してもいいとか、思ってないです。結婚したいって、思ってます」

…引きました?なんて窺うように俺を見て、それから顔を赤くする俺に気付いてちょっと笑った。





101016

もやもや悩む丹さんと、真っすぐな彼女。丹波さんはもっとかっこいい筈。しかもあんな良い男が未婚なわけがない。



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