酒を零す


広くて長いカウンターテーブル、厨房に面しているから、賑やかな料理の様子を名前は一人、ぼんやりと眺める。店内はオーダーの声や、仲間同士の会話で溢れているけど、さっきまで隣で騒いでいた友人がいなくなったせいか、自分の周りが物凄く静かに感じられた。

「…別れた」、友人にそう言うと、今日は飲もう!飲んで忘れよう!と連れてこられた。むかつく別れ方だったけど、名前が怒るまでもなく友人が、怒ってくれてたから、それで何だか名前の方は冷静でいられた。その友人の電話が鳴った。仕事の急用とか。本当心底申し訳なさそうな顔をする彼女に、「大丈夫、ここいい店だね、美味しいし。一人で優雅に晩餐といきますよ」なんて言って、心配そうに見つめてくる友人に向って、気にしないで、て、笑って見送った。

静か。
ていうか、空っぽみたい。
空っぽ。彼との関係が終わった、あったものがなくなった、空白と同じ。
頼んでいた料理が運ばれてきて、その空っぽを埋めるみたいに、名前はひたすらにそれを胃におさめていく。口に運ぶ。咀嚼。ああ、美味しい。飲み込む。口に運ぶ。咀嚼。ああこの店、また今度ゆっくり友達と来よう。もぐもぐ。酒で流し込む。食べる。酒。食べる。食べる。

「すっごく美味しかった!ごちそうさま」
「よかった。…この後どうしよっか」

そんなふうな会話、名前の後ろを男女の声が通り抜けて、思わず手が止まる。それで、気付く。なんだこれ、お腹いっぱい。食べ過ぎた。くるしい。それだけではない、でもなんかくるしい。目の前が滲んで、泣くものかと名前は思う。
多分、ホントは、別れたの、つらいし苦しい。むかつく。自分のそういう感情、分かってるけど、でもどうしようもないので今は忘れたい。そして出来ることなら。二度と思い出したくない。空っぽはどうやら、胃にモノを詰めるだけでは埋まらないらしかった。
食べ過ぎた。くるしい。しゃくりをあげそうで、歯を食いしばる。咽喉がひきつる。流れる水分が勿体無い。あんな別れのために流す涙なんてない。これ、酔ってお腹いっぱいでちょっと苦しい、ゆえの涙目だから。早く蒸発してしまえ。そして体内から減った水分は即補給、とりあえず、酒。

「あ、すみません。これ、熱燗で」

名前としては、平然と言ったつもりのそれは、でもやっぱり震えていた。自分の情けない声が聞こえて、ますますむかつくけど、絶対、泣くものか。目をぐわっと開いて、絶対に零れないように上を向く。


その様子を隣で、ちらり横目で見ていたのが、星野。
星野といえばその日、一人で夕飯を食べに行った。新しく見つけた、ちょっといい感じの店。ちょっといい感じ。隣に座っている、物凄い勢いで飯を食ってたかと思えば急にすんすん言い出したりする女を除いては。
いや、別にいいけど。大人って色んな事情があるものだから、美味しい飯食ったり、酒飲んだりして何もかも忘れたい気分になることもあるだろう。まあ分かる。お察しします。
さすがに腹いっぱいになったのか隣の女はひたすら酒を飲み始めた。しかも途切れることなくすんすん言ってる。めそめそ泣いているほうがまだマシだ、すんすん言いながら、泣くまいとでも思っているのか、目をかっ開いて、空を凝視しているその形相、ちょっとしたホラー。
それはいい。それはいいとして。アンタ、一人でそんな飲んで、大丈夫かよ。周りに迷惑掛けないでちゃんと帰れんの?社会人だろ、もっとそれらしい飲み方があるんじゃねえの?
とか思うけど、思うだけ。関わりあいたくはない、決して。なるべく早く食い終わって、店を出ようと星野は思う、けど。

「おぎゃっ、す、すみません」
「…いえ、」

倒れたグラスからテーブルに液体が、広がる。

「すみませんホント、すみません」
「いや、大丈夫なんで。あ、零れたんで拭くものありますか」

星野が店員とやりとりしている間に、名前はぼんやりと、ゆらゆらした頭で、テーブルの上の液体を眺める。あーあ。零れちゃった。
それで、さっきまですんすん言ってたのに、名前はふと、どうでも良い気持ちになる。なんでだろう、自分の気持ちの代わりみたいに、グラスからお酒がぶちまけられて、それで、ああ今まさに、テーブルが拭かれる。自分の、くるしいとかむかつくとか、色んなどろどろも、一緒に綺麗に拭われているみたいな。
なんて、酔った頭で考えられてはいないけど。ただただ、ずーんと重たかった気持ちが、一気に愉快な気分にシフトした。酔っ払いの感情とか思考の振れ幅って、そんなものだ。
今日ここに来てからひとり、自分の手元と、何を見るでもなく睨んでいた焦点の合っていない光景しか、見ていなかった名前はふと、視界が開けた気がした。なんだろう。これ。不思議、変なの、あほらしい!途端に名前は、なんだか愉快な気分。

隣で、さあ飯の続き、と思った星野は、ん、と思う。なんかめちゃくちゃ見られてるんですけど。これ絶対目があったら絡まれる、予感。

「あの、」
「…」
「あ、やっぱり!オニーサン、星野に似てる!星野って知ってる?川崎の。あ、てゆーか日本代表だよ、日本の守護神だよ!まじかっこいい!でもオニーサン、星野よりイケメン!」
「…」
「えへへ」
「…どうも」

さっきまですんすんしてたのはどうしたよ。
酔っ払い独特の螺子の抜けた満面の笑みを向けられて、何故だか星野はぎくりとする。その音を身体の中から吐き出すように、深く溜め息をついた。





101220

酔っ払いに、星野よりイケメン!、て言われる星野を書きたかっただけの話。星野はなんだか、こいつありえねえ…!と思っている相手に振り回されそうな気がする。



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