肉を食す 練習後の夕方、車を走らせていると見知った姿の横を通り過ぎた。すぐに信号につかまったので、電話をかける。振り返ると、窓越しに、携帯を手に歩く姿が見えた。 「あ、コッシー。電話なんて珍しいですね」 「誰がコッシーだ。…今信号で停車してるんだが」 「え…あ!」 小走りに駆け寄ってきたから、内からドアを開けてやると、当然のように助手席におさまって、発車する。 「偶然ですね、びっくりした」 「ああ」 「何処か行く途中ですか」 「いや、これから帰る」 「あ、じゃあちょっと回って、××駅で降ろしてもらえますか」 「ああ」 相槌を打ちながら横目でちらりと見る。いつもの名前と何か違う。見慣れた名前より、少し女っぽい感じ。久しぶりに会ったからだろうか。いや、違う。なんだろう、分かりやすく綺麗だ。 「女の子の変化に鈍感な男にはなりたくないね、褒め称えてこそ彼女たちはますます美しくなるんだから。ねえ、コッシー」とかなんとか、いつか何かの折にジーノが言っていた言葉がふいに頭に浮んだ。 浮んだからといって、褒め方なんて知らないしそもそも変化なんてよく分からない村越は、「いつもと違うな」くらいしか口に出なかったわけだが、名前はえへへ、とうれしそうに笑う。それを見て、慣れないこともやってみるもんだな、と村越は思う。ジーノの言うこともなかなか役に立つじゃねえか。実際には村越は別に褒め言葉でもなんでもないことを言っただけなのだが。 一瞬、いい気分になった村越だったが、次の瞬間にはとんでもないことが待ち受けていた。 「えへへ、わかります?今から合コンなんですよ」 アクセルを変に踏み込みそうになって、代りにハンドルを握る手に力を込める。 「合コンって、アレか」 「ちょっと、アレとか言わないで下さいよ。ボケたかと思うじゃないですか」 いや、おい。おいおい。ちょっと待て。 ちょうどよく信号が赤になった。事故を起こさないですむ。ここは赤の長い信号だ。冷静になろう。 「何でそんなもん行くんだよ」 「え、ああ。人数合わせで呼ばれただけなんですけど、相手、××の同い年らしくて。ちょっと気合入りますよね」 村越の焦りになんか微塵も気付かないで、名前は呑気な調子で続ける。名前の言葉の中にあった企業は誰でも知ってるような一流企業で、村越はますます、ちょっと待て、と思う。おいおい、待て。待て待て。これからどうなるかわからないサッカー選手に見切りをつけるってことか。いや待て。落ち着け。なんだ、これ。おい。どういうことだ、これは。 「おまえ、別れる気かよ」 「え?誰とですか?」 「誰と、て…。俺とに決まってるじゃねえか」 村越は苛立つ。なんなんだこの女。 「え、村越さんってETUと結婚してるじゃないですか」 どう聞いてもあほとしか思えないようなことを大真面目な顔で名前が言うものだから、村越は焦りとか苛立ちとか全部吹っ飛んだ。それで、怒っていいのか泣いていいのかわからない。なんなんだよ。困惑。 「ていうかわたしと村越さんって付き合ってたんですか」 村越が今まで付き合って別れてきた歴代の彼女たちのように責める風でもなく、名前はただただ不思議そうにきょとんとしている。名前と出会ってもうすぐ三年だ、それっぽいこともしたし、それっぽいことも言った。 そこからかよ!と思うと、何だかやっぱり、腹が立ってくる。 「知らねえよ。俺はそのつもりだったし、だいたいETUと結婚って何だ。俺はいつかおまえと結婚するんだと思ってたよ」 苛立ちに任せて、名前を見ないまま言い終えて、沈黙が落ちる。 「なにそれ!」 名前が絶叫する。なにそれ!はこっちの台詞だ、と村越は思う。 横からカシャッ、とシートベルトを外す音がして、ああ、出て行くんだな、と村越は思う。ああ、これで終わりか。なんとも間抜けな終わり方じゃねえか。 攻守がちぐはぐしてピリピリして誰もが負け試合を予感している後半ロスタイム、ホイッスルが響く手前の長い一瞬、みたいだと思っていると。 「なにそれ!素敵!」 名前が叫んで、飛びついてきたものだから、村越は何が何だか分からない。とりあえず間抜けな終焉を迎えることだけはなくなったらしい、ということは分かったので、逃げられないようにつかまえておくみたいに、名前の背中に手を回した。 「ぎゃー!もーやばい!今日なんなの!素敵すぎる!」 しかもどうやら村越は気づかないうちに相当にファンタジックなゴールを決めたらしかった。 「あーうん、ごめんね。今度埋め合わせするからさ」 クラクションを鳴らされて青信号に気付いて、慌ててアクセルを踏んで走り出した。名前はあわあわとシートベルトをつけてから、しばらくふにゃっとしていた。それから、思い出したみたいに携帯を取り出して、ドタキャンの電話をしている。 「えへー、“彼氏”に行くなって言われた!」 きゃいきゃい喋ってから、名前が電話を切る。 「おまえ、行かなくてよかったのかよ」 「え、」 「人数合わせだろ。友達困るんじゃねえか」 スポーツ選手らしく切り替えの早い村越は、名前の捕獲に成功と確信するやいなや余裕の発言をする。村越としては本心から名前の人間関係を心配しているつもりだけど、余裕があるからできることだ。 「えー、行くなって言ってくださいよ」 口を尖らせる名前を見て、村越は満更でもない気持ちになる。 「飯行くか」 「行く!」 「肉食うか」 「肉?」 「おまえ、痩せただろ」 村越は、前々から名前を細っこくて頼りないと思ってたが、久しぶりに抱きしめてなおのこと細くなっていると感じたのだ。 「うーん、言われてみればそうかも」 「肉食え、肉。今日は肉だ」 「じゃあ焼肉食べたい!」 「…いや、おまえ。小奇麗な格好してんじゃねえか」 村越は、いつもよりちょっと綺麗な感じの名前を、油くさくて煙っぽい焼肉屋に連れて入るのは何か気が引けた。 「いいんですよ。もう意味ないし」 心底どうでもいいように言って、にーくにくにくー、と変な節をつけてはしゃぐ名前に、村越は小さく苦笑する。 「あー、美味い!」 ビールをごきゅごきゅやってから、爽やかに言い放つおっさんめいた、しかし何か綺麗な感じのネーチャンは、ちょっと薄汚れた(でも最高に美味い)焼肉屋では、やっぱり浮いた。本人も村越も、そんなこともうどうでもよくって全然気付いてないけど。 「おまえ、何で痩せたんだよ。ちゃんと食ってんのか」 「食べてますよ!…ああ、多分、こないだ風邪でなんかすごい熱が出たから、それでかも。いやあ、あれはやばかったね」 「おまえ、そういうときは呼べよ」 村越が言うと、名前は口を尖らせた。 「だって、やっぱ本妻に気を使うじゃないですか」 「本妻って、」 「村越さん、試合前だったし。うつしたりしたら嫌じゃないですか」 名前に対して、うれしい気持ちと申し訳ないような気持ちが湧き上がるけど、村越はそれを何と言葉にしていいかわからない。 「おい。それまだ焼けてねえよ」 「えー」 「村越さんは、茂幸って名前の割りに、幸薄そうだったけど、」 いいかんじに酔った名前が、にこにこと喋り始める。何か失礼なことを言っている。 「でも、今年、監督変わって、ちょっと変わりましたね」 幸薄そうな感じはまだまだありますけどー、とか何とか言って、眉間に皺を寄せる村越を見てケタケタ笑っている。 監督変わって、というのに村越は違和感を感じた。何だ。ああ、そうだ、名前は、サッカーのことなんて全然知らない筈じゃなかったか。付き合い始めた(と村越が思っている)とき、見ても分かんないから寝てしまう、というようなことを言っていたような。 「おまえ、見てんのか」 「見てますよ」 「寝てんじゃねえのか」 「見てますってば」 「そうか」 喋って箸がおろそかになる名前の皿に、焼けた肉を次々と乗せていく。 名前はそれを見ながら、ちょっと居心地悪そうに言う。 「…本妻の動向を知っとこうと思ったんですよ」 「そうか」 本妻、なんて言い方をやめさせようかと思ったけど、話を促す。 「うん。去年まで、とんだ下げマンだと思ってたんですけど」 「おい、」 「敵わないなあと思いました」 「…そうか」 「うん。ちょっと侮りがたいですよね」 「ああ」 嫌味な言い方じゃなくて、名前が、サッカーをちょっと面白いと思ってるって、分かるからまた、村越はたまらない気持ちになる。でもやっぱりそれを、何と言葉にしていいかわからない。 「野菜も食え」 「えー、肉食えって言ったじゃないですか。葉っぱいらないですよ」 「葉っぱじゃねえ。チシャだ」 上手く包めない名前の手から奪いとって、綺麗に包んで渡してやる。 名前は美味しそうにむしゃむしゃ食べる。 「村越さんはー、包むのが上手い」 「おまえが下手なんだ」 結局、村越も酒を飲んだから(だって名前の飲みっぷりにつられた)、車を置いて、そんなに遠くない村越のマンションまで歩いて帰った。つないだ手をぶんぶん振って、名前は上機嫌だ。 「村越さんはー、茂幸って名前の割りにー、幸薄そうですけどー、」 焼肉屋でも聞いた台詞を、心許無い呂律で名前が言う。自覚がないことでもないが、そんなに幸薄いのかと思うと村越はちょっとだけ凹む。 「おい、」 「でも、わたしが幸せにしたげるんで、もう安心ですね!」 思わず立ち止まった村越を、名前が振り返る。 「明日戦力外通告されてー、本妻に捨てられてもー、大丈夫です!わたし結構稼いでるし、養ってあげます!」 おいおい、縁起でもないことを言うな。あほなことばっかり言う唇に噛み付いた。 久しぶりにしたキスは、酒臭くて肉臭くてにんにく臭くて、全然ロマンチックじゃなかった。 101129 お幸せに。茂幸は幸薄そう、ていうことを言いたかっただけの話。 タイトルが余りにも適当なのできっと変えます。 |