「散らかっていますけれど」

苦笑混じりのそんな言葉とともに通された部屋に入ったそのとき、胸の内を去来した感情は郷愁に似ていたように思う。特別に見覚えのある家具があったわけではない。或いはその部屋自体を見たことがあるわけでもない。ただ、その部屋の主とは親しく付き合わせて貰っていて、たまたま今日初めてこうして招かれた。それだけのこと。
だのにどうしてか、その部屋をくるりと見回して、空間を満たす空気を吸って、そうして覚えたのは懐かしさのようなものだった。そして、安堵に類似する何かだった。ほう、と小さく息を吐きたくなる、そんな雰囲気に満ちていた。

「どうぞ、座ってくださいな。今お茶を持って来ますので」
「有り難うございます」

ぺこりと会釈をして去って行く部屋の主――遺駒の背で、下ろされた白髪がさらりと揺れる。まるで雪をそのまま写し取ったかのような、黒髪の褪せたそれとはどうにも違うように見えるその白は、多様な容姿を持つ獄卒の中でも殊更に目立つ。普段のように纏めて帽子も被っていればいざ知らず、今のように下ろされていればそれは尚更だ。
しかし今彼女が身に纏っているのは、若草色をした上品な雰囲気の小袖である。帯の色合いも大層合っていて、如何に彼女が着物を着慣れているのかがよく分かる。歩き方も楚々としていて、まるで深窓の令嬢のようだ。――実際、彼女は所謂『お嬢様』というには違うが、所作のひとつひとつに何処か不思議な気品らしいものがある。

「ふう」

遺駒が出ていったこともあり、なまえは若干遠慮を無くして今居る部屋を見渡した。主のいない部屋はそれでも何処か安らかな空気に満ちていて、なまえは思わずほっと肩の力を抜いてしまった。
綺麗に整頓された部屋だった。しかし生活感が無いわけではない。使い込まれた文机に、箪笥、大きな本棚がふたつ。押し入れ。それからミシン。
古めかしい、というとやや失礼な感じもするが、所謂『新品の家具』は此処にはないようだ。本棚に収められている本の1冊1冊も、刊行されてからそれなりに経っているらしいものばかり。先日現世でなまえと買い求めた辞書が、やたらと新しいせいか棚の中でも浮き立って見えた。
部屋の中央、出された座布団に座ったなまえの側には、大きめのちゃぶ台が置かれている。木目の美しい、しかしやはり大事に使われた痕跡の残るちゃぶ台だ。きっとこれも、大事に大事に使ってきたのだろう。

「いいなあ、此処」

うっすらと笑みを浮かべ、思わずなまえはそう漏らす。何か殊更面白いもの、珍しいものを見つけたわけではない。ただひたすらに、この部屋の何もかもが酷くなまえのお気に召してならないのだ。

――あ、あの辺遺駒さんっぽい。

文机の近くにはミシンと、最近の家庭ではあまり見ないが、絎台が置かれている。針山もきちんと置かれているようだ。遺駒は裁縫が得意だと言うから、きっと普段から何かしら繕い物などもしているのだろう。多分縫い途中のものであろう、茜色の布がきちんと畳んで置かれている。遠目にだが、質の良い布であることはすぐに分かった。
何を縫っているのか気になるが、流石に勝手に広げたら失礼だろう。遺駒の戻ってくる気配を感じたなまえは、よいしょと居住まいを正して家主の戻りを待った。

「お待たせしました」

なまえが座り直して程なく戻ってきた遺駒は、手に湯呑みがふたつに菓子鉢が載った盆を抱えていた。片手で扉を支え、片手で盆を持つ彼女に、なまえは慌てて駆け寄り盆を受け取る。

「持ちます」
「まあ、有り難うございます」

仲間内の中では力が弱いとはいえ、彼女自身もまた歴戦の獄卒。この程度のことは何でもないのだろうが、遺駒はなまえの拙い気遣いを許容しにこりと笑んでくれた。盆を受け取ったなまえは、危なげなくちゃぶ台の上に湯呑みと菓子鉢を載せる。

「ほうじ茶ですか?」
「ええ、お嫌いですか?」
「大好きです」

普段飲むのはもっぱら緑茶か紅茶だが、お茶は大抵なんでも好きだ。ついでに言うなら、遺駒が用意するものに文句がある筈も無い。なまえが食い気味に答えると、遺駒は「それは良かった」とほんのり微笑んだ。

「どうぞ。なまえさんが普段出してくださるような、良い葉ではないですけど」
「やだなあ。葉っぱよりも煎れる人の腕の方が大事ですよ。……とっても美味しいですねえ。それに良い匂い」

香ばしいほうじ茶の香りと、舌触りの良い苦味。丁寧に煎れられたのがすぐに分かる。なまえは気の抜けた声で讃辞を述べた。

「ふふ、有り難うございます。お菓子も如何ですか?」
「いただきます」

菓子鉢に盛られているのは、茶色の薄皮饅頭だ。断ってひとつ手にとって口に運ぶ。漉し餡の甘みが口いっぱいに広がって、美味しい。

「凄く上品ですね、このあんこ」

予想以上にしっとりとしたおいしさに目を瞠ると、遺駒は微かに得意げに笑う。

「これ、災藤さんに教えて頂いたお店のお品なんですよ」
「そうなんですか?」

お口に合って良かった。そう言って自身も饅頭を手に取る遺駒。はむ、と小さく饅頭をかじる仕草が何処か幼げで可愛らしかった。お饅頭を食べているだけなのに可愛いとは、美少女(というと本人は真っ赤になって否定する)とは何とも恐ろしい生き物である。

「流石災藤さん、お洒落なセレクトショップから和菓子屋さんまで何でもござれですねえ」

ずず、とまだまだ温かいほうじ茶を啜りながら、顔を見合わせて笑い合う。生きた年月も生きる世界も違う彼女たちの話題は、もっぱら共通の知り合い――つまりは特務室の他の獄卒達だ。やれ誰がどうしただの、偶然誰とどうなっただの、あのひとは実はこういうことを言うだの。会話の幅は狭いはずなのに、ひとりひとりの性格が濃いせいか、話題が尽きた試しはついぞない。

「あ、そうだ。遺駒さん」
「はい?」
「『あれ』は一体何を作ってるんですか?」

それでも何かの拍子に会話が途切れたところで、なまえがふと「あれ」と部屋の隅を指さした。『あれ』というのは、先ほどなまえがみつけた、あの茜色の布地である。遺駒はきょとりと目を丸くし、なまえの指さす方向に視線を走らせ――「あっっ!」と彼女らしからぬ頓狂な声を上げた。

「あ、ああ、どうしましょう、しまってなかったなんて……! み、見てしまいました、か?」

おろおろと狼狽え始める遺駒。ついでに僅かながら頬が赤い。普段はその唇を除けばモノクロ写真のように白と黒ばかりで構成される彼女だが、こんな風に赤らんでいれば誰も間違えないだろうなと、なまえは少々場違いなことを考える。
が、狼狽する彼女があまりに哀れなので、「何を縫っているのかまでは見ていない」と正直に答える。遺駒はそれを聞いて、「そうですか」と胸をなで下ろした。

「見られたら困るものでしたか?」

だとしたら悪いことを聞いてしまった。なまえが首を傾げるが、遺駒は「いえ」とまだ頬を染めたまま首を振る。

「ただまあ、出来るまでは内緒にというか……ええ、大したことではないんです。でも、そうですね、今はまだ、見なかったことにしてくださいな」
「はあ」

いそいそと、畳まれた茜色をしまい込む遺駒。なまえは不思議がりつつも、この会話は此処で終わらせることにした。気にはなるものの、此処で空気を悪くするつもりはない。まあ、それで遺駒が気分を害するとは思えないが。

――誰かへのプレゼントかなあ。

自分のものであれば隠す理由もないし、その辺が妥当だろう。布の色からして女物のようだし、キリカやあやこに贈るつもりなのかも知れない。なまえはそう内心で当たりを付け、ふたつめの薄皮饅頭をぱくりと口に運んだ。

「もうすぐお盆ですので、現世でも入り用かと思って。邪魔にならなければ貰ってやってくださいな」

後日、そんな言葉とともに照れくさそうに微笑んだ遺駒が、なまえにあの茜色で仕立てられた浴衣を広げてみせる未来を、なまえ自身は当然、まだ知らない。


敢えて名付けることもない日


▼「花氷」のうさぎ様より、うさぎ様のサイト一周年記念のお祝い絵のお返しに…とありがたくもリクエスト受け付けて頂いたので、ここぞとばかりにお願いして賜った小説です。御覧ください。これがSo cuteというものです。
我がサイト1万ヒットの時に頂いたお外デート編の後のことだったので、お部屋デートをお願いしてみましたがもう喋ってたり一緒にお茶啜ってるだけで可愛いとはこれいかに。(家族以外で)自室に招くほど仲がいいんやなあ…と思うと言葉にならない。
毎度小ネタや設定を汲んだ作品を書いていただいていてほんともう高鳴りがとまりません。
うさぎ様、素敵な作品を本当にありがとうございました!いつもお世話になっております…!