▼注意:大分暈かしてはありますが、気分の良くない犯罪の描写があります。



風もなく、波も高くはない。が、雨天。
時折見えるもう殆ど意味を成していない窓の向こうでは、空に厚い雲が垂れ込めしとしとと音を立てながら雨を降らせている。
打ちっぱなしのコンクリートに囲まれた室内は薄暗く、ずっと放置されているせいか所々崩れている。時折配管か雨樋からかわからないが水がしたたり落ちては床や壁を塗らしており、それが陰鬱とした空気を一層増幅させていた。
水たまりを踏めば、ぱしゃんと足下で滴が跳ねる。

「見つからないねえ。」
「ええ……すみません。」
「遺駒が謝るようなことじゃないよ。」

私のものより大きな手が制帽の上からぽんぽんと頭を撫でる。どうにも小さい子供のような扱いをされている感は否めないが、この人―――木舌さんはいつもそうだ。おおらかで兄然としているため、大抵の同僚は下の弟のような扱いをされている。それは私も例外ではなく。館の来た当初から何かと気遣ってくれている彼に、兄というものがあるならこんな風だったのだろうか、と思いながらその扱いを甘受している。……最近はよく禁酒しろと佐疫さんに叱られているが。

「さて、何だっけ。感じとれたりとれなかったりするって?遺駒にしては珍しいよね。そういうの。」
「はい。普段は一度知覚出来れば距離の関係で濃淡はあっても、気配が途切れることは無いのですが、今回はなんだか本当に雲を掴むような実体のなさでして。」
「へえ。そりゃあ困った。」

さして困っていないように木舌さんは笑う。その笑みに私も苦笑を返しながら、随分離れたところに微かに感じる気配に、内心で首を傾げた。

本日木舌さんと共に肋角さんから承った任務は、幽霊が密集していると噂がある都心郊外の廃工場の調査と、または悪霊の捕縛である。悪霊に変異しているようであれば被害が出る前に捕縛すること。事と次第によっては屠る事もやむなし、という話だ。
現状ここに入って行方不明になったとおぼしき人間は居るが、噂が流れ始めた正確な時期が分からないため、現世での行方不明と噂の前後関係も不明瞭なのだ。ここの幽霊がそもそもの元凶かも定かではないため、基本はその調査が主な任務である。

「じゃあのんびりいこうか。」
「はい。けれど油断なさいませんよう。」

***


任務は難航を極めた。
気を抜いていたつもりこそないものの、そこまで手の掛かる任務だとも思って居なかったのが本音だった。調査にしても、浮遊霊のひとりからでも話を伺えれば、多少の情報は手に入るだとうと思っていた。が、そもそも浮遊霊のひとりたりとも見あたらないのである。空気は相変わらずじめじめとして、錆の臭いが鼻につく。
感じている気配を頼りに悪霊と思しき気配を追いかけ、見失い、時に全力で疾走し、挟み撃ちにしようと試みたりもしたが、その姿を目にすることも出来ずに現時点では全て徒労に終わっている。さすがに尻尾どころか姿すら掴めない者の相手を数時間全力で行っていれば積もる疲労感は拭えない。
今は少し開けたところで持参していたおにぎりを頬張っている。陰鬱とした場所ではあるが、ゆかりを混ぜたお米に海苔とごまの香りがかぐわしい。更に魔法瓶を取り出して蓋をあけ、付属のカップに中身を注ぎ入れて木舌さんに手渡す。

「どうぞ。」
「ありがとう。」

小さく音を立てながら私ももう一つのカップに注いだ中身、鞠麩と三つ葉の味噌汁を啜ると、じんわりと内側から暖かくなる。空腹が満たされると気分が落ち着くのは、生き物(私達をそう言っていいのかは分からないが)の性だろうか。思わず息を吐くと、隣から笑い声が聞こえる。

「遺駒はどこに行っても遺駒だねえ。一緒に任務に当たるときは毎回ご相伴に預かれるから、おれとしては役得。」
「そんな、大したものではありませんよ。」
「謙遜しないの。女の子としてどこに出しても恥ずかしくないよ。」
「木舌さんたら。」

おかわりある?と差し出されたカップに再び味噌汁を注げば、木舌さんは満足そうに頷いた。その表情に私も嬉しくなり、笑みを返す。
任務に出るとき、大抵私はお弁当を拵える。お握りと汁物だけの質素なものであるが、今回みたいに思ったように事が進まないときなどに、気分を切り替えたり落ち着くのに役立つ。単純に腹が減っては戦が出来ぬ、という理由もあるのだけれど。
最初、食事を供給してくれているキリカさんに昼食のぶんを包んで貰えるように頼もうかとも思ったが、少なくはない館の獄卒の朝食と昼食を一手に担っている彼女の負担を増やすのは忍びなく、また大した手間でもないため、自分一人での任務の時や任務に当たる人数が少ないときはその人数分を作って持って行くようにしている。人数が多い時はさすがに持ち歩くと任務の邪魔になるため館に帰って食べることになるが。
一緒に任務に赴くの獄卒たちのぶんも作るのは、自分一人の食事だけ用意するのは気が咎める上に、案外好評だったからである。それ以来なんとなく習慣で弁当づくりは続けている。
それはさておき、お腹が満たされたところで、進捗思わしくない任務について話し合うことにする。

「んー…これだけ捕まらない、っていうか姿が見えないっていうのも妙な話だよね。相手にしたって危害を加えてくるわけでもないし、ただ逃げるだけ。それも気配が現れたり消えたり…。」
「……変異しかけている、のかもしれません。」
「どういうこと?悪霊に落ちかけてるって?」
「はい。悪霊に落ちれば魂が変質しますから気配も変わる……けれど出たり消えたりする説明にはならないのですよね。まるでスイッチを切ったり点けたりするような。」
「現時点で悪霊になってるとは限らないんだね。」
「可能性お話です。微量ながら邪気の類は感じていますから、悪霊に変異してる可能性も十分にあります。……どちらも断言は出来ませんが。」

可能性の話ばかりをしていても仕方がない。私たちの目的はまず噂の幽霊の姿を確かめなければ始まらない。今現状では生者にも幽霊にも出会ってはいないのだから。それを心得てるとばかりに木舌さんは頷く。

「これからどうする、って話だよね。」
「……ここでひとつ、別行動をとってみるのはどうでしょう。」

何せ、ここの廃工場は広い。四棟からなる建物はどれも大きく広く、重機や精密機械の類はもう運び出されているようで所々がらんどうだが、それでも探索する場所が多いのは間違いない。ここ数時間は幽霊の捕縛や追跡ばかりをしていたせいで二棟程度しか回れていないが、奥の二棟はまだ足を踏み入れていない。

「別行動か。挟み撃ち狙いのときもしたけど。」
「今度は件の幽霊はさておいて、探索をいたしましょう。とにかく情報が足りません。幽霊についても、ここで『何があったか』についても、です。」
「なるほどね。……遺駒、『何かがあった』のは、確信?」

その問いに対して言葉を返すことはなく、にっこりと軽く肩を竦めながら笑みを浮かべると、木舌さんもその顔に苦笑を浮かべる。そして、私たちは一時間半後にここに戻ってくること、どちらかが三十分過ぎても戻らないようならは一度館に戻り、人員補充をして臨むことを決めて、それぞれ別の扉を潜った。


***


嫌な空気だ。
そう思いながら足を動かす。何かが居る気配はないものの、室内の荒れ具合、もとい過去に人が居た気配はどんどん濃くなっている。工場の入り口にも荒くれ者が屯していたような壁の落書きや食べ物の包装紙、空き缶や空き瓶等が転がってはいたが、それとはまた違う、これは。
――――これは、欲の匂いだ。

廊下の奥にある錆びて立て付けの悪い重い鉄扉を開くと、その向こうで行われていた醜悪な行為の数々が、吐き気がするような色濃さで鎮座しているの見えた。
足下に転がっている硝子、足の折れた椅子、乱雑に備え付けられた机や棚、放置されて埃の積もった黴臭いシーツ、千切れたのか切られたのかわからない紐の切れ端、血のついた角材やバット。
そして部屋の至る所に散らばっている、引き裂かれた布切れ。踏み入れたときに既に予想はしていた。砂埃に紛れて、けれども分かりやすく鼻孔を突いた生臭さと血錆の臭い。
手袋をした手で、布切れのひとつをつまみ上げる。本来女性の身体を覆う用途である可愛らしい柄のそれは、無惨にも引き裂かれ、あらゆるものがそれを汚している。
ちりつくような熱さを感じながら、それを元の場所に戻す。自分の眉間に皺が寄っているのが分かるが、一人きりならそれに構う必要もない。

「……木舌さんと来なくて良かった。」
優しい彼は、一緒にここに来ていたらきっと女性である私に気を使っただろう。そんな無駄な気遣いはさせたくない。起こってしまったことはもうどうしようもないのだ。それに私は、獄卒としての責務を全うしにここに来ているのだから、この惨状に芽生えたものに足を取られるほど愚かではない。
ただ、ここで被害にあった誰かが悪霊に落ち、ここを彷徨う亡者になっているの居るのだろうか。

そうであるならば、哀れだ、と思ってしまう。
苦しみぬいた上で迎えた死にも逃げ場所はなく、その魂すら穢す羽目になってしまったのだとしたら、なんと哀れなことだろう。

けれど罪を犯したのであれば、地獄の沙汰を受けねばならない。罪人には罰を。それが人の魂の宿命であるのだから。

もうここ見るものはないと、部屋の奥にある扉を開こうとする。その瞬間、ひたりと背筋に冷たいものが走ったような気がした。それは、冷えた手に撫でられたような感覚だった。

「……っ!」

本能的に、手にしていた大鎌を背後に向けて振り抜く。けれど、何かを裂いたような手応えはなく、代わりに、大きく目を見開いた顔が、振り向いた私のすぐ目の前に垂れ下がっていた。僅か数センチの所に迫っていた顔は、私と目をあわせるなり口を開く。すぐ我に返った私はもう一度大鎌を振り上げようとして、耳を打ったその声に動きを鈍らせた。

『だめよ』
『ここは、だめよ』

無数の手が私の手を、足を、身体を掴む。

『来る、来る、隠れなきゃ』
『逃げなきゃ、また、痛い、酷い、ああ、』

無数の目が、私の両目を見返す。

『あなたも』

ガラン、と大鎌が地面に転がる音がした。


どんなまことをお持ちでも いち