手を抜くということが、出来ないわけではない。そう思いたい。
ただどうしても、集中すればするほど、没頭すればするほど、疲労を訴える身体や心とは裏腹に感覚は鋭敏に、手元の精度は増すばかり。これでは力を抜きようもない。見かねた上司に非番を言いつけられたことも少なくなく、そのたびに疲労感をひた隠しにすることが病的に上手くなってしまった。まあ、肋角さんには見破られている気がとてもするのだが。
そもそも自分は労働や自己研鑽が嫌いではない。力がついたと思えばもっともっと欲を出してしまうし、獄卒の仕事に対する誇りや充実感は確かに私の胸を満たす。
そのせいと言えば言い訳にしかならないけれど。

食事をして、入浴して、少し趣味の時間を取って、鍛錬をして、一日の終わりには床で眠りにつく。これ以上の幸福があるだろうか。恐らくあるのだろうけれど。私にはこれで十分だ、と思ってしまう。
それを漏らすと、彼は「足りねえだろ」と声を低くする。そうして、決まって私の腕を引くのだ。

***

時刻はそろそろ日がが傾き始める四時。お八つを食べるには遅く、夕食をとるには早い時間帯だ。
コンコン、と目当ての部屋の扉を手の甲で軽く叩くと中から衣擦れの音がした。恐らく寝ていたのだろう。
いつも通りうんともすんとも返ってこない返事い苦笑して、扉を隔てたむこうの彼に声をかける。

「田噛さん。ちょっとよろしいですか?」

すると緩慢ながらも足音が聞こえて、数拍の間を空けて目の前の扉が開かれる。中からは私服の、少し眠たげな目の田噛さんが顔を出し「・・・どうした。」と掠れた声で問いかける。対する私自身も任務を終えた後で着替えているから、私服の着物姿な訳だが。先ほど肋角さんに呼び止められ、任された用事を終わらせるべく館内を歩いていたのだ。
田噛さんの常より更に低い声に頷いて、手元にあった書類を彼に向けて手渡す。なんだ、じゃなくてどうした、か。その言葉尻の柔さの違いに口元がゆるむのは隠しておこう。

紙の束を受け取った田噛さんがその文面に目を落としたのを見て、説明を付け加えるために口を開く。

「昨日の任務の事後報告書と明日の任務の資料です。目を通しておいてくださいね。」
「あぁ。」
「あと、明日同行するのは平腹さんと谷裂さんみたいです。ところにより追加になりますね。」
「………めんどくせえ。」
「ふふ、寝れませんね。」

よく揃って任務に着かされる二人ゆえに、田噛さんが平腹さんに対しては扱いを心得ているのか、それとも平腹さんが田噛さんの行動を気にしていないのかは分からないけれど、この二人だけの任務の時、加えて同行するのが斬島さんや木舌さんの時は何かにつけてごく自然に田噛さんは任務をさぼろうとする。
恐らくは「まあ自分が居なくてもそのうち何かしらの形で終わってるだろ」と考えているのだと思う。まあ予想の通り平腹さんは奔放な上に自分ではどうにもならなくなったら大抵死ぬか生きるかの二択に落ち着くし、斬島さんはもの言いたげな時はあるが咎める気もない上に真面目に任務を遂行するし、木舌さんは元来ののんびりした気質ゆえか大抵のことは笑って流してしまう。
けれど谷裂さんとなればそうはいかない。彼は斬島さんとは別の種類の生真面目なのだ。自分が堅実に任務を遂行するのはもちろんのこと、他人にも同じだけのそれを求める。要するに自分にも他人にも厳しいひとなのだ。彼が同行する任務では早々に寝ることは出来ないだろう。……田噛さんも、真面目にやればとても出来る人なのに。
頭の隅に、そろそろお暇しなくては、という言葉がちらつく。同時にもう少し、とも浮かんだが、仕事のためとはいえ寝ている人を起こしてまで引き留めるのも悪いだろうと思い直す。

はあ、とため息をつく田噛さんを見ながら小さく頭を下げて「では、失礼します。お休みのところすみません。」と言い、踵を返そうとすると、ぐっと腕を捕まれ制止する。今近くには田噛さんしかないない。私の腕を掴んだのも、彼しかいないだろう。

「どうかされました?」
「………。」
振り向けば田噛さんは眉間に皺を寄せてこちらを見ている。はて、私は何かしてしまっただろうか。田噛さんの目をのぞき込むとほんの少し、彼の瞳孔が開いた。そのまま数秒か数十秒か顔をつき合わせていると「お前、この後仕事は。」と訪ねられたので「ない、です。」と少し歯切れが悪くなりながらも返事をする。すると私の腕を掴んでいた手から力が抜ける、一体何事?と疑問符を浮かべながらもふ、と息を着いた次の瞬間には後頭部をガッと掴まれる。予想していなかった衝撃に「ひゃあ!」と情けない声を上げてしまった。恥ずかしい。
尚も後頭部には力が加わっている。圧力に急きたてられるままに足をもつれさせれば、背後でぱたんと扉がしまる音がした。
慌てて背後を振り返ろうとしたが、相変わらず後頭部にかかる手に首が固定されていて振り替えることができない。
けれど理解する。田噛さんに、彼の自室に押し込まれたのだ。

「え、あの、田噛さん、」
「うるせぇ。」

困惑を込めて投げた言葉に対しての返事はにべもない。それでも彼のほうを見ようと放してと言わんばかりに首を振ると、予想外に簡単に頭が解放される。けれど、これはなんだかつい何拍か前に体験したような既視感を覚える。腕を放されたときもこんな風だったような気が―――。

二度あること三度ある。
そんなことを考えるよりも早く、私の身体は常より高いところに浮き上がっていた。
「わっ」
ぐらりと揺れる不安定さに身体が強ばる。膝裏にある腕、私の胸付にある短い黒髪は普段は見上げるばかりの田噛さんのものだ。思わず手近なものに手を伸ばせば、私の膝裏にある腕とは反対の手で、宙を彷徨っている私の手首を掴む。自由な場所はまだ多い筈であるのに、完全拘束、の文字が頭を過ぎった。
カランと軽い音がして、ちらりと目をやれば、先ほどまで履いていた下駄が部屋の床に転がっていた。持ち上げられた時に脱げてしまったのだろう。
この状況が恐ろしいわけではないし、受け入れ難いものというわけでもない。だたただ訳も分からず驚いているだけだ。
そんな私の混乱を露ほども気にせず田噛さんは自室の中を真っ直ぐ突き進み、彼の寝台に私を下ろした。つい先ほどまで寝ていたからか、人間よりは随分低いながらも布団に移った体温をじんわりと感じる。
ぎし、と寝台のスプリングが軋む音がして、下ろされた体制のまま部屋の天井を仰ぐばかりだった視線を横にずらせば、身体の重心を前に傾けながら、ベッドに座る田噛さんが居る。顔は変わらず不機嫌そうだ。
この状況は一体なんなのかと問えば答えてくれるだろうか。そう意図を込めて見つめて見れば、呆れ果てたように田噛さんは見た限りでは二度目のため息を吐いた。

「寝てけ。疲れてんだろ。」
「え、」
「そもそも恋人の部屋を訪ねて言うことが仕事の話だけって、どんだけ色気のねぇ頭なんだ。」
「………。」

ぐっと言葉に詰まる。そしてじわじわと顔が熱くなる。恋人、その単語はまだ私には気恥ずかしく、扱いあぐねているもののひとつだった。
私と彼は俗に言う恋仲というもので、兄妹のような同僚、という関係から一歩進んでからそう大層時間が経っている訳ではない。……口吸いは済ませているけれども。
知識としては恋仲というものはどういうものか知っているし、私は確かに彼に恋している。獄卒として何十年と生きている身でこんな第二次成長期の少女のようなもの慣れなさは情けなくもあり、田噛さんにも申し訳ない。
けれど、彼に恋をするまで、私とそれは無縁のものだった。
猛然と襲い来る羞恥心も、ふとしたときに姿や声を思い描く執着も、どこまで境界を溶かしてもいいのかという懊悩も、塵芥ほど憶えのないもの。
―――――慈しみ、愛することは知っているのに。

「別に何もしねぇよ。」
「………。」
「あと、クソ真面目も大概ににしとけ。休む時には休め。何もかも受け入れて何も手がつけられねぇなら本末転倒だ馬鹿。」

見つめるともなしに田噛さんのほうを向いたまま一言も発さない私に、何を思ったのか視線を逸らしながら田噛さんはそう口にした。ぶっきらぼうな口も態度も常と変わらない。言葉の端に滲む温かないたわりは、慈雨のように私に浸透していく。
無茶は理解できる。けれど無理が分からなくなる。
走ることは出来る。けれど止まり時がわからなくなる。
そんな益体もない歪さを、理解した上で側にいてくれるこのひとは、私にとってどれほど尊いものなのだろうか。
私は私の生活に満足している。あくせく働くのは落ち着くし、己を磨くためにするべきことは沢山ある。そう思うことが出来るだけ、私には数多の選択肢があり、何かを選ぶ権利がある。それだけで、十分だと思ってしまう。
けれどいつでも彼は「足りない」と唸る。「欲張れ」と言って私に触れる。
それだけで酸素を肺いっぱいに吸い込んだような心地になる。
多幸感にえづいてしまうのではないかと思うほど、私は果報者だ。

田噛さんの言ったことを噛み砕きながら、固めの寝台に横たわっていると、ふと頭上に陰が落ちる。耳元でばねが軋んだ音がして、自分の顔のすぐ近くで、逆さまの夕日が細められた。

「遺駒。」

粘膜に直接感じた息に、熱いものが血管を走り抜けたようにびくりと肩を跳ねさせる。そんな私に構わず、田噛さんは私の唇に噛みつくように口付けた。

「ふ、」
口ごと覆われるようなそれに小さく呻けば、下唇を甘噛みして田噛さんは離れた。恐らくほんの数秒にしか満たない時間の触れ合い。けれど沸騰したように耳と頬がが熱かった。掌で口元を覆って身体を丸める私に、先ほどと同じ体制に戻った田噛さんはくっ、とのどの奥で一度笑った。努めて冷静になろうとするが無茶というものだ。顔を覆ったまま「何もしないって…。」と絞り出せば「宿代。キスぐらいは許せよ。」と悪びれもせずに言う。嬉しいには嬉しいので、悪びれなくても構わないのだが。心臓に悪い。
少し田噛さんの近くに移動して、寝台の端に寄せられていた布団を顔に埋める。大人しく厚意に甘えることにする。

「夕飯は、」
「今日は佐疫が非番だったから作んだろ。」
「はい……。」
「寝てろ。」

瞼の上が覆われて、目の前が暗闇に包まれる。節くれ立った大きな手が既に沈み始めている意識をより深くへ落とし込んでいく。段々と自分の呼吸が静かに緩やかになっていくのを感じて、よく見知った仄暗い場所を思い出す。
ここは違う。ここには凍てつくような寒さも、蝕むような侘びしさもない。何より、大事な人がすぐそこにいて私は私の呼吸の在処を知っている。

まどろみに浮かされたと言い訳したくて、けれど一言も発することなく、彼の手に掌を重ねて穏やかな午睡に身を委ねた。


貴方の世界で息をする