「あ、遺駒。」
「………。」

本日の任務を言い渡され、肋角さんの執務室から出てきたばかりの俺たちは、早速目的地へ赴こうと玄関を目指して歩いていたけれど、その途中窓から見下ろした青々とした芝生が広がる館の庭先で、ゆらゆらと揺れる白い髪が見つけた。
頭の高い位置でひとつに結われているそれは小刻みに揺れながら、時折身体の動きに合わせて大きく跳ねている。
独り言のようにぽつりと漏らした俺の声をしっかりと耳に入れたのか、隣を歩いていた谷裂は相変わらず眉を寄せた不機嫌そうな表情のまま、何も言わずに俺の視線先見る。
その姿を横目でちらりと見て、また視線を戻す。

胡桃色をした麻の着物の袖を襷上げにしてしゃがみ込む彼女は、よく見れば土にまみれた軍手を付けている。なるほど草むしりをしているのか。傍らには雑草を入れるのだろう袋が置かれているから、まず間違いないだろう。あの着物も、彼女が掃除などの汚れ仕事をするときに身につけるものだ。
なるほど、任務から帰ってきているのに朝から姿を見かけなかったのはそういうことかと納得する。せっかく貰った休暇なのだから、たまにはゆっくり朝寝坊をしても罰は当たらないだろうに。

「遺駒もまめっていうか、働き者っていうか。休日ぐらいゆっくりすればいいのにね。」
「………ふん。休日だからといって惰眠を貪るなど言語道断だ。」
「谷裂は休みじゃなくても鍛錬してるじゃないか。」
「当然だ。鍛えなければ腕は衰える。継続しなくてはその先には行けない。」
「谷裂らしいね。」

ふん、ともう一度鼻を鳴らして谷裂は窓の外から視線を外す。顔がまっすぐ前を向くぎりぎりまで、視線は窓の外の遺駒の背中に刺さっていた―――ように見えた。
雑草を集めた袋を抱えて立ち上がった彼女を見て、二歩ほど先に歩き出した谷裂を追って自分も再び歩き出す。
暫くお互い無言のまま歩いていたが、つい、先ほど足を止めた直後に思ったことを投げかける。

「谷裂って、遺駒のこと気に入ってるよね。」

そう言えば、一瞬谷裂の足音にズレが生じたような気がしたが、歩みを遅らせることにはならなかったらしい。けれど常より強く眉間に皺をよせて、熱さすら感じるような視線で睨まれる。

「何を馬鹿なことを。」
「いや、別に変な意味じゃないんだよ?気に入ってるっていうか、許容してるっていうか、そう感じるってだけで。」
「気に入ってなど…いや、それ以前に変な意味とはなんだ!」
「まあまあ。」

強い口調が次の瞬間には怒号に変わりそうだと思いながら手を振ると、何か意図があったわけではないと伝わったらしく、表情は変わらず不機嫌そうだが谷裂はそれ以上言葉を重ねなかった。
気に入っている。谷裂に言ったその言葉は確かに俺自身がなんとなく感じてきたことだった。視線を送ることを促したわけでもなく、ただぽつりと漏らした言葉に足を止めて、目線であの小さな背中を追いかける谷裂。それが離される時も、姿が視界から途切れる瞬間まで見続けていた彼。多分本人が思うよりも面倒見が悪いわけではない谷裂だが、そうやって「気にかける」のはなんだかとても珍しい気がすると、その行動に気づいた当初思ったのを覚えている。
斬島を引きずって帰ってくるのはプライド混みの別の理由だしね、と頭の中で付け足す。
遺駒が館に来た当初はそうじゃなかった気がする。と、いうことは谷裂にとって、琴線に触れる何かがあったのだろう。
少し色褪せた記憶の中の、ここにやって来てすぐの彼女の姿を思い浮かべる。
背の高さは今と対して変わらない。けれど今よりずっと細く、掻き消えてしまいそうに儚げで、ぎこちないどころかほんの少しも動かない表情の――――。

「俺は、遺駒が今みたいになってよかったなあ、と思うよ。」
「今日はなにやら唐突だな佐疫。何の話だ。」
「いや、なんか思い出してさ。遺駒、最初のころ全然表情がなくて、身体も華奢で…今も華奢だけどさ。でも、よく笑うようになった。」
「………。」

谷裂の瞼の裏にも、あの頃の遺駒の姿が蘇っているんだろう。押し黙って目を細めている。
ふいに、谷裂が口を開いた。

「俺は、あいつが嫌いだった。」

先ほど俺に言ったように唐突に放たれた言葉に、俺は瞠目した。嫌いだった、とはまた。
「嫌いだったの?」
「嫌いだった。肋角さんに間違いがあるとは思えないが、あの時ばかりは何故、としか思えなかった。枝のように細くて、意志も何も枯渇したような目をして、どうみても貧弱そうだったからな。このような奴に、獄卒の仕事が勤まるはずないと思った。」
「まあ、分からなくもない、かな。」

谷裂のように仕事目線で彼女を見た訳ではないが、それでもあの時彼女がこの館の一員として働くと言われた時は、皆多少は同じことを考えたのではないだろうか。
特務室はそれこそあらゆる任務を請け負う。書類仕事、調査、捕縛や掃討まで様々だ。荒事は日常茶飯事。それゆえに彼女が新しい仲間としてここに来たときは大丈夫だろうか、と思ったものだ。
―――まあ、予想に反して案外逞しく、聡明な少女だったことに驚かされた訳だが。以前は乏しい表情の奥で、今は微笑みの裏に、思慮と智慧と懊悩を隠している。
谷裂も驚いたのだろうか。

「だった、ってことは今は嫌いじゃないんだね。」
「……嫌ってはいない。が、別に気に入っている訳ではない。」
「分かったよ。」

先ほど言ったことを再び掘り返されると思ったのか重ねて念押ししてくる。そんなに言わなくても、気に入って居ても口に出したくないだけだってわかるのに。全く素直じゃない。
嫌いだ、と遺駒に対してそう思った谷裂が、嫌いだった、と言うようになる心境の変化をもたらしたのは、きっと彼女以外の何者でもない。
それはなかなかに得難いものではないか。そう思う。
ならその感情の種類は一体何なのか、そう考えたところで何が潜んでいるか分からない藪をつついているような気がして、その考えを追い払った。
蛇が出たとして、不都合なのは俺なのか、谷裂なのか、それとも遺駒なのか、それは分からない。
まだ、それでもいいと思う。

「帰りに甘いものでも買って帰ってあげようか。頑張ってるみたいだし。」
「……勝手にしろ。」




***

遺駒が嫌いだった。それは間違いない。
けれどその嫌悪が形を変えたのは、出会ってからそう幾日も経たないうちだった。

一層夜が色濃くなる深更。
任務の疲労感が身体から抜けないせいか、妙に目が覚めてしまった。水でも飲むかと寝床から起きあがり、仕事用の靴の横に並べてある草履を引っかけて部屋から出る。
獄卒の私室は館内の上階にある。階下は談話室であったり食堂であったりと、来客を迎える場所や肋角さんの執務室以外は共用スペースだ。食堂は階下故に水を飲むにはそこまでいかなければいけない。階段までやってきて、いざ下段に足をかけたところで、踊り場の手摺りの向こうでさらりと揺れる白い毛先が見えた。その目に映った色味に顔を顰めながらおい、と声を掛ける。姿自体は見えなかったが、薄く感じる気配は立ち止まっている。踊り場まで降りると、二段ほど下がったところで真っ白な女がこちらに向き直って佇んでいた。
白い着物に濃紺の羽織。獄卒ならば当然だが肌の青白さと相まってこうして見ると亡者のようだ。
自分から口を開く気配はなく、少し下に目線を落としながらじっとしている。そんな姿にも腹の奥からじわりじわりと苛立ちが沸き上がる。
なぜ自分はこの女がこんなにも気に入らないのかはわからない。一つずつ挙げれば理解できるのかもしれないが、あえてする気もない。端的に言うならば弱そうだから、だ。
苛立ちを隠さずに言葉を重ねる。

「貴様、何をしてる。」
「………屋敷内の地理を知りたくて、歩いています。」
「こんな夜中にか。」

女の表情は変わらない。精巧な人形のように固まったままだ。
俺の言うことをどういう意味と取ったのか、初めて女のほうから自発的に口を利いた。
「耳に障りましたでしょうか。申し訳ありません。」
「そんなことは言っていない。」
やんわりと腰を折られて、苛立ちは加速する。別にこの女が何かしたわけじゃない。ただ、気骨もなにもないように見える態度に苛立っているのだ。何をしていたのか、と言外に再び問えば、

「……眠れなくて。」
そう言い、重ねて、
「何からすればよいか、と考えていました。」
と、続けた。その内容に虚を突かれて、一拍ほど時が止まったような気がした。何からすればよいか、その意味を噛み砕いて反芻する。
「何から?」
「はい。」
「何を、ではなく何から、か。」
「はい。やるべきことは山のようにあります。私は、私の至らぬ部分を一日でも埋めなくてはなりません。」

けれど、何からやればいいかをずっと思案していたら眠れなくて、どうせ眠れないのならと歩いていました。と、静かな声でそう言う。この女は本当に、昼間自分たちに向けて頭を垂れた細く頼りなさげな女と同じ人物なのだろうか。姿は同じだ。けれど発せられる声音に乗せられてるのは、昼間あれだけ希薄に思えた意思だ。それは喉元を切り裂くような鋭さすら持ち合わせているような気がした。

「何のためにだ。」
疑問は口をついて出た。塵ほども見えなかったこいつの意思がいま顔をのぞかせたことで俺は動揺したのだろうか。真意を聞いてみたい。そう思わずには居られなかった。
その唐突な問いの意図を汲んだのか、ぱちりとひとつ瞬きをして、闇を一閃するような凛とした声で奴は言った。

「ここにいる恩に報いるために。」
ひとつ息を吐く。
「今いる私を全うするために。」

これで答えになりますでしょうか。
嫌味や皮肉を一切孕まない、俺の納得に対する確認だった。
視線が交わる。錆鼠色の光彩は夜の暗がりの中でも光を集めてきらりと瞬く。その目の奥に、奴の頭の天辺から足先までを突き抜けるような一本の真っ直ぐな芯を見たような気がした。
交わった視線を逸らさないまま頷けば、奴もうなずき返してきた。それでは、おやすみさないませ。とまたひとつ頭を下げて、背を向けて階段を下りていく。
白い髪が、濃紺の羽織の上をさらりと滑って揺れていた。

その後ろ姿を目で追い、俺は自分の浅慮さを恥じた。
奴は俺が最初に感じたような手弱女ではない。そう確信したからだ。確かに昼間は、今し方見た鋭さは見えなかったが、かいなでのみで判断するべきではなかったと後悔している。

弱い者ではない。少なくとも精神は脆弱ではない。高潔であるかは分からない。けれど一本通った芯の片鱗は見た。
既に階下へたどり着いた奴の足取りは、雛鳥や子鹿のような頼りなさげな歩みではない。
遺駒は確かに、自分の歩幅をよく心得て歩いていた。

ほっそりとしながらも今は力強く見えるその背を見送って、俺は暫くそこに立ち尽くしていた。

2.歩幅