人が、歩んだ道程を我が身の歴史にして自身を形作るなら、私には己というものが無かった。人と同じ姿で人と同じ体を成していながら、中身のない私は、正しく抜け殻だったのだろう。
その畜生にも劣る益体のなさを、今思い返せば恥入らずにはいられないが。

その有様こそがすべての縁に繋がるのだと思えば、感謝に満ちて目を閉じることしか出来ない。


***

びゅう、と上着のフード越しに耳を撫でていく風の音はその凍り付いた空気によく似て鋭い。吹雪いているというほどではないが、風に煽られて舞い上がる雪はくるくると中空を踊っては飛んでいく。それを横目で眺めて唇から白い息を吐き出し、ぐっと首に巻いていたマフラーを顔の下半分を覆うように引き上げ、やわらかなそれに鼻先を埋めた。
片手で大きなシャベルを持ち上げると、普段これを仕事道具として使用している元気で奔放な同僚を思い出す。私事でも公事でも、彼がこれを振り回している時はとても軽快で、その上唐突だ。あまり周りを気にしていないため、近くに居るときは注意をしなくてはいけない―――そういえば、この間も亡者を一掃しようとシャベルを振り抜き、勢い余って一緒に任務にあたっていた常に気怠げな同僚の後頭部を盛大に陥没させて、あとで二、三発程拳を見舞われていたなと思い出し、口元に苦笑が浮かぶ。慌てて大量の血を滴らせる彼を任務中だし手当するからと宥めたのも記憶に新しい。そうでなければうっかり加害者の立場になった彼は更に殴り飛ばされていただろう。彼らは元気だろうか。今日も任務に出ているだろうか。
毎日見ていた顔ぶれが集う館から離れてもうじき二週間になる。たった二週間だ。けれど脳裏にある彼らや、敬愛する上司の姿を思い浮かべると、自身の内側どこからかえもいわれぬ感情が浮上してくる。これは、郷愁というものだろうか。

途端重たいものが滑り落ちる気配がして、はっと音のしたほうを見やると、小さな雪の山の上のほうが崩れて広がっていた。降り積もる雪の重さに耐えられなかったのだろう。

「さ、仕事仕事。」

胸に去来した感情を隅に押し込む。まずは目先の仕事を片づけねば始まらない、と心中で気合いを入れ直す。
真っ白な雪を踏みしめて白の奥へ奥へと進んでいくと、後ろから艶やかな声が掛かった。

「遺駒ちゃん、ひとりであんまり進むと危ないわよォ。」
「雪女さん。」
ふわり、とそれこそ淡雪のように頭上に現れたその人は、やんわりと自分の肩に手を置いてその歩みを止めさせる。真っ白な着物だけを纏った彼女の姿は、明らかに雪が降り積もるこの場には明らかに軽装過ぎるが、心配する必要はない。彼女は現在地である八寒地獄で守人をしている雪女だからだ。着物の袖と長い黒髪を風に乗せながら、彼女は問うた。

「八寒の雪山はすぐ雪で地形が変わるからねェ。慣れてない子は迷っちゃうわ。迷ったら獄卒だって凍えちゃうんだから。」
「ええ、ありがとうございます。でも、多分大丈夫です。」
「まあ、遺駒ちゃんならねェ。帰ってこれるでしょうけども。」

彼女は独特の少し語尾を延ばした口調で笑う。それに笑みを返して、彼女が着いてくるのを気配で察しながら歩を進める。

「ほんと助かるわァ。こっちの不手際だっていうのに特務室から呼び寄せちゃってごめんなさいねェ。」
「いいえ、そんなこと。割れてしまったとはいえ宝物を雪山に散らばらせたままにはしておけませんもの。」
「遺駒ちゃんが探しものが得意でよかったわァ。だからこそここに呼ばれたんだけど。」
「そうですねえ。」

彼女の口調が移って少し語尾が伸びたが、上手く伸びきらずに中途半端に途切れてしまった。なんだか気恥ずかしくなってちらりと横目で彼女を見ると、聞き逃してない、とばかりに笑みを深くされ、一層自身の羞恥心を煽る羽目になってしまって、私は照れ隠しにはにかみながらフードの下に被った制帽の鍔を指先でいじった。
しんしんと降り積もる雪を踏み分けて進み、しばらくして足を止める。シャベルはいるだろうか。いや、ここなら、そう思いながら小高い丘の上で抱えていたシャベルをざくりと雪に突き刺して足跡のない雪の原を厚い手袋に覆われた手で掘る。
ざくざく、ざく、ざく。

柔い雪を退かしながら手を奥まで伸ばすと、指先が固いものに振れた。見つけた、そう感じてなんとかそれをつまみ上げると、八寒地獄に来てからもう何度か見た、つるりと白い陶器のようなものの破片だった。
後ろから小さく雪女さんの歓喜の声が上がる。どうやら自分が掘り進めている間、降り注ぐ頭上の雪をせき止めていてくれたようだ。
雪女さんにお礼を言って、彼女に欠片を渡す。彼女は少し恭しく受け取って握りしめ、にっこりと笑って言った。

「これが最後の破片みたい。」

頑張ったわね、ありがとう。そう口にしてまた浮かび上がった彼女の背を追いながら、ひそやかに息を吐いた。白い呼気となってゆらめいたそれは瞬く間に霧散してしまったが、体中に感じる疲労感や安堵は反してゆっくりと重みを増した。

ああ、どうやら漸く『家』に帰る目処がついたようだ。

0.大地凍つ場所にて