靴底が一定の速度で床を叩く音がする。
こつ、こつ、こつ、という重たいわけでもなく軽いわけでもない、身の重さに見合ったその音が今日は妙に耳につく。
それにつられるように足下に目線を送れば、当たり前だが一定の調子で歩く深い緑の制服のズボンと、黒いブーツに収まった足がある。
一仕事を終えて館に帰って来たが、大して疲労していないため朝館を出た時と変わらない歩調だ。ふと、それこそいつも通りである筈なのに、なぜ今こんなことを考えたのだろうかと、制帽を目深に被り、青い柄の日本刀を腰に佩いた青年―――斬島は考える。
いつも通りであるというのに、いつもと違う考えが浮かんだのは、釈然としないものがある。

そして思考の末に「足音には耳を傾けてしまう」と言っていた同僚のことを思い出した。その姿を頭に浮かべると、視界に白色がちらついたようなような気さえしたが、当然本人が目の前に居るはずはなく、斬島の瞼の裏に残像を残すのみになった。
つられてその時の会話を思い出す。食堂で向かい合って食べた食事の終わりに、ぽつりと漏らしたこと。

―――子供みたいだと笑われてしまうかもしれませんが、心臓の音や呼吸音を聞いてると眠くなってしまうのと似ているような気がしますね。つまりは安心するってことでしょうか。
―――違い、ますかね。安心したいから、聞き入る?ほら、足音は鳴らす人によって様々で、けれど気配を色濃く形作るものでしょう?慣れた足音を聞いて、誰が居るか分かるとなんだか嬉しくなってしまうんです。分かるぐらい、慣れた音になったんだなって。
―――分からないって顔ですね。すみません、上手く説明出来ませんで。……え?ああ、はい。自分の足音もそうですね、仕事から帰って来たときは、慣れた場所で聞こえる慣れた音に、帰ってきたな、と感じます。
―――変ですか?
―――ふふ、ありがとうございます。

常と同じ微笑みを湛えてそう言った。
今もあいつの言った『安心』や『嬉しい』の意味はよくわからないが、疑問を鸚鵡替えしに聞き返す自分に対して、説明するための言葉を選ぶ顔は終始穏やかだったことを思い出す。

―――斬島さんの足音も分かりますよ。さっき食堂に来たときも、あ、斬島さんだ、って思いましたから。

そこまで記憶を手繰り寄せたところで、目的地の扉の前まで辿り着いた。場所は斬島の上司である肋角の執務室で、館に帰還したその足でここまで来たのは任務の報告をするためだ。正午を半刻ほど過ぎた頃には任務を終えたため、まだ日が高く辺りは明るい。もしかしたら次の任務を与えられるかもしれない、と少々気を引き締めて重厚な木製の扉を丸めた拳の背で軽く叩く。

「肋角さん。任務の報告に来ました。」
さして間を置かず、入れ、と声がかかると、斬島はノブを捻り扉を押し開ける。当然扉の向こうには、執務机で仕事をしている肋角の姿のみがあると思っていた斬島の予想は外れた。
ゆらり、と白色が揺れる。

「斬島さん、お久しぶりです。」

柔らかい笑顔で振り向いたその人物は、先ほど反芻した記憶の中出てきた同僚だった。

「遺駒か。帰ってきていたんだな。」
「はい。今し方。」

彼女―――遺駒は、二週間ほど前から別部署の要請を受けて八寒地獄の方へ出張していた。ただの体力仕事や捕縛、殲滅であるならば斬島たち他の獄卒にも声がかかったかもしれないが、内容が特殊な事柄であったために任務に見合った能力を買われ抜擢されたのだ。この館にいても、お互い多種多様な任務に着くため、顔を合わせることが少なくなる時もあるが、それでも全く姿を見ないということはない。獄卒達と顔を合わせると、出張で姿も気配もない遺駒の話題が出ることが度々あった。佐疫などは「大丈夫だと思うけど。怪我とかしてないかな。」と彼女の身を案じていたし、木舌は「遺駒が居ないと晩酌に付き合ってくれる人がいないんだけどなあ。斬島ぁ一緒に呑まない?」などとぼやいていた。他もそれぞれの反応を返しながら、どこかあるはずのものがないような気分を味わってたのだろう。それは斬島とて例外ではなかった。
キリカやあやこなどの館内の維持に従事している面々とは別に、この館では唯一の女性獄卒だ。目を引くのは当然だろう。けれど、彼女が居ると不思議と空気が和らぐ。そんなことをぼんやりと感じていた。

「無事か。」
「はい。怪我などもしていません。元気です。」

元気だと言いながらも少々疲労感を滲ませながらの返事に、なるほど向こうは中々慌ただしかったのだと斬島は悟る。
いつもは後頭部で、動くときに邪魔にならないようにとまとめ上げられてる髪は、珍しく後ろで一括りして垂らされている。執務室に入った折に、いつもより白色が目に入ったのはそういうことだろう。

白。
遺駒を見たとき、大抵の者が思うことはそれだろう。
彼女は豊かな長い髪を持っているが、その色は雪のように真っ白だ。目は錆鼠色で、獄卒らしい肌の青白さと相まって古いモノクロ写真から出てきたようである。唯一唇の赤みだけが彼女が紙面に写された絵姿ではないことを表していた。
多彩な色彩を持った獄卒達の中でも、遺駒は異色の部類だった。とはいえ個々の色味をそこまで重視する者達ではないため、慣れてしまえば気にならない。

軽く会話を交わした後、遺駒に促されて報告を終えると、ご苦労だったと返事をされる。どうやら次の仕事を割り振られることはないらしい。

「遺駒もご苦労だったな。明日から三日は休暇だ。よく静養するように。」
「はい。……お休みが三日もですか。そこまで重労働ではありませんでしたから、大丈夫ですよ?肋角さん。」
「一日だけらなら大したことはなくとも、一四日続けば十分重労働だ。八寒の方からもよく役立ってくれたと報告が来ている。」
「まあ。お役に立ててなによりです。ではありがたくお暇を頂きます。」

律儀にぺこりと腰を折る遺駒を見て、肋角は目を細める。紫煙をくゆらせた煙管をくわえる口元はやんわりと弧を描いている。そしておもむろに椅子から立ち上がり遺駒と斬島の近くまで歩いてくると、骨ばった大きな手のひらて肋角の上背に比べたら随分低い位置にある遺駒の頭をわしわしと撫でた。

「わ、」
「夕刻になれば他の奴らも帰ってくるだろう。恐らく二週間分を埋めるように構いに来るだろうから、もみくちゃにされないようにしておけ。」
「うう、はい……。」

頭をかき混ぜられながら遺駒が返事をすれば、満足げに笑って手を離す。そしてぽん、と笹の葉で包まれた包みを手渡す。

「出先での貰い物だがな。二つしかないから皆が帰る前に二人で食べろ。」

いいな、と言いながら斬島に目を向けるので、斬島もはい、と任務に赴く時よりは小さく返事をする。遺駒は手に乗せられた包みに目をぱちぱちと瞬かせていたが肋角のいう「食べろ」との言葉に表情を明るくし、ありがとうございます、と笑った。

空気に色があるのなら、今はきっと明るい色をしている。
その笑顔を横で眺めながら、斬島はそう思った。

***

「なるほど、虫の知らせというやつか。」
「はい?」

テーブルを挟んだ向かいで目を丸くする遺駒と共に、先ほど貰ったおはぎを竹楊枝でつつきながら、執務室にたどり着く前に自分らしかぬ考えに首を傾げることになったのは、つまりはそういうことなのだろうと納得した。

思いもよらぬところにあった答えに満足した斬島が緑茶を啜る。
任務を終えて帰ってきた獄卒達に取り囲まれ、その謎が隅に追いやられるまで、今生まれたばかりの疑問符は彼女の頭上を飛び交うままだった。

1.虫の知らせ