晩冬の白い日差しが色づき始めた。
ぴんと張りつめたような寒さの中を、自分が吐き出したばかりの呼気が白く、けれども真冬の中よりは薄くゆらりと目の前をたゆたう。外気温と体温の差は未だはっきりとしていて、春や夏のような体温が空気に溶けるような感覚はまだない。
けれど今降り注ぐ日差しには、確かに柔らかな色味が混ざっている。太陽の色味が変わるのは、実は暦より早いのだ。一足先に移り変わり、その後を追いかけるように気温や植物にも変化が生まれる。これからどんどん暖かくなってゆくのだろうと思うと、嬉しくて口元が綻んでしまう。
感慨に耽っていたせいか、思わず手元の動きも緩やかになってしまう。それに気づいたのだろう、静かな声がこちらを窺った。

「遺駒さん?」
「あ、」
はっとして振り向くと、大きなシーツを軽くまとめながらあやこさんが小首を傾げて視線を向けていた。真っ直ぐで艶やかな黒髪が、さらりと着物の袖を滑った。

「お疲れなら、部屋に・・・」
「いいえ、いいえ、大丈夫です。すみません、自分で手伝うと言ったのに」
「気にしないでください。あの、本当にお疲れでは?」
「本当に、大丈夫です」

重ねてそう言えば、よかったとばかりにほんの少し口角を上げて目を細めるあやこさんに、やんわりと笑いかける。あまり表情は変わらず自己主張が乏しい彼女だが、表情や態度をよく見ていればその変化は中々分かりやすい。
たまに二口女の所以たる後頭部の口が態度以上に強く感情を示すときもあるが、それはそれで愛嬌だと思う。
普段から自分たち館の獄卒の世話を焼いてくれている彼女やキリカさんには、感謝を込めて時間があれば仕事を手伝ったりしているが、キリカさんはともかくあやこさんには自分の仕事だからと遠慮されてしまうこともしばしばだ。
今日は早く任務が片づき、丁度洗濯物を取り込もうとしていたあやこさんに手伝いを申し出たところやはり遠慮されたが、時間が出来たらよければ一緒にお茶でもと誘い、なんとかはにかんだ表情のあやこさんの了承を得て、こうして取り込み作業をしているのである。
自分で言い出したことなのに別のことに気を取られてしまうとは、そう反省しながら取り込む作業を素早く進めようと手を動かすと、ふとあやこさんが声を再びかけてきた。

「何を見ていらっしゃったんですか?」
先ほどの私の目線の方向が気になったのか、あやこさんはそう訪ねる。ついさっきまでの視線をなぞるように、彼女の目線が上を見ると、そこには変わらずよく晴れた淡い青の空と白い雲、そして太陽が浮かんでいる。

「日差しが春めいてきたな、と思いまして」
「日差し」
ぱちりとひとつ瞬きをして、再び空に視線を向けると眩しそうに目を細める。それがなんだか微笑ましくてくすりと笑えば、あやこさんは視線をこちらに戻して不思議そうな顔をする。

「確かに、少し柔らかくなったような・・・」
「ね、もうすぐ暖かくなりますよ」
「それは嬉しいですね」

春は好きだ。
四季にはそれぞれ良さがあって、どれも比べようもなく好きだが、春はなんとなくではあるけれど、ほんの少し特別だった。
大地が凍り、草木の眠る冬が終わり、一斉に何かが芽吹きはじめる春。何か、とは植物かもしれないし、動物かもしれないし、あるいは目に見えぬものであるかもしれない。それが目を覚まして溢れ出すのを見ているとわっと活気に包まれたような心地になる。
そして春を迎えようとしているこの時期の、来るぞ来るぞもうすぐ来るぞと全てが綻び出すような雰囲気も、とても好きだった。
何より春は、食べ物も一気に増えるのだ。昨今では特定の季節でしか手には入らなかったものでも普通に市場に出回っていたりもするが、それでも寒い冬の中でじっくりと出番を待っていたものが、一気に顔をだすことも多い。
大食漢の多い館であるので、食べ物について考えることが多いのはご愛敬というものだ。自分も食事は好きである。旬のものを美味しく食べるのは大変好ましいと想ってはばからない。

そこでふと浮かんだのは甘い香り。よく嗅ぎなれた馴染み深い甘いそれは、思い起こすだけで様々な色形のものを想起させる。
中でも春、と言えば。

「桜餅」
「はい?」

ぽんと口から放られた言葉を、あやこさんが聞き返す。脈絡もなく単語だけを発したことに少々気まずさと照れを憶えながら話し始める。

「春が来るなら、桜餅だな、と思いまして」
「桜餅ですか。いいですね。まだ時期には早いですが・・・」

顔を見合わせる。現在時刻は十四時を過ぎたところ。洗濯物を畳み終え、その後は。

「小豆はありましたよね」
「葉は、どうでしょう」
「・・・・・・お八つ時は少々過ぎてしまうかもしれませんが、仕方ありません」

悪戯っぽくそう言えば、黒髪を揺らしながら彼女も顔を綻ばせた。
春の訪れのその先駆けのように。

***

「で、長命寺なんだ」
「葉と餡はなんとかなったのですが、餅米が足りなくて・・・」
「こっちも美味いな」

急須から注がれたばかりのお茶が、湯飲みの中でふわりと湯気を立てている。それを時折口に運びながら、目の前に置かれた桜色の皮と葉で包まれた桜餅を楊枝でつつくのは、今日は非番だった斬島さんと、つい先ほど任務を終えて館に帰ってきた佐疫さん。勿論一緒に作ったキリカさんやあやこさんも一緒だ。
長命寺とは“この世”にある仏閣の名称であり、人によく知られている桜餅の種類である。もうひとつ桜色に染めた餅米で餡を包み葉を巻いた道明寺という種類の桜餅があるが、自分が毎年作るのはこちらである。今回は今口頭で説明した理由があって長命寺になったが。長命寺の桜餅も違う口当たりや味わいで、これもまた美味しいものである。
自分も一口ぶんに切った桜餅を口に運びながら、少し早い春を堪能する。ああ、やはり美味しい。美味しいは幸せなことである。

「毎年なんだかんだと食べたくなっちゃうのよねえ」
「・・・はい」

顔を綻ばせながら宅を囲むキリカさんの言葉にあやこさんも頷いている。「時節ものはやはりその時期に食べたくなるものですものね」と言えば「桜餅の後は柏餅かしら」「ぼたもちもありますね」「うぐいす餅もあるよね」と春の甘味の話題に花が咲く。そのうち話はちまきや初鰹など食事の方面に移っていく。甘味で大分くちたはずのお腹が、また空腹を訴え始めたような気がする。

桜餅を作るにあたって、昼食の片づけ等も急ぎ終えてしまったためにお八つ時を大分過ぎて今は日も大分傾いてきている。夕餉の前ではあるけれど、女性陣はともかく館の獄卒達は大食漢が多いため、食前にお菓子をひとつ供されたとしてもぺろりと平らげて、平時通りの量で夕餉を食べることだろう。
喧嘩にならないように沢山作っておくのは、館内でお菓子を作る場合の常だ。ここにいる彼らは食に関しては殊更貪欲なのである。その食べっぷりは見ていて気持ちがいいけれど。
早々にひとつ食べ終えたらしい斬島さんが、更地になったお皿の上をじっと見つめている。

「斬島さん、もうひとついかがですか?」
「貰おう」

間髪入れずに返答が返る。それにこみ上げる微笑ましさを感じていると、横で小さく笑っている佐疫さんと目があった。視線だけで頷きあう。

ゆっくりと傾く太陽に、空は青から蜜色に変わっていく。そのうちすっかり赤くなって、青をはらんで濃紺の夜がやってくるだろう。
室内の暖かさにほんのりと結露した窓の外を見ながら、近く訪れるだろう白にほど近い淡い色の美しい花が咲き誇る景色を想った。

はらはらと、陽の光に照らされながら舞う花びらの情景を瞼の裏に見る。
なんときれいな景色だろう。
何度季節を巡っても、この時期が来ると待ち遠しくてたまらなくなる。春の訪れを喜ぶのと同じように、何故かはわからないのだけれど。

はやく、はやく、春よ来い。
逸る心を抑えるように、ひとつ息を吐いて瞬きをした。

春告草を待つ