夢を見るのは好きではない。夢で心地よさを得た試しがないからだ。
眠るの自体は好きなのである。よく使い慣れた布団の柔らかさも、それに包まれたときの心地よさも、ゆっくりと眠りの淵に落ちていく感覚も、私をとても安心させる。繰り返し行う日課の中でも、一日の終りに眠りにつくこと。それは当然のことながらも、私にとってとても大事なことになっていた。朝起きること、食事をすること、仲間言葉を交わすこと、そして、夜眠ること。そんな「当たり前」が何よりも愛しい。
それはさておき。そもそも自分は眠りが深い質らしく、夢を見る機会はそう多くもない。そしてその少ない機会の中で見る夢は、決まっていつも同じもの。
起きた時にはすっかり霞掛かっておぼろげになっているが、それでも常と違い鉛が詰まっているかのように重い頭と、胸の内に爪を立てられたような心地が、起き抜けの自分を憂鬱にさせる。

その夜の夢は、ひどく長かったような気がする。

陽炎のように揺らめきながら、現れては掻き消えていく景色。それは網膜に直接映像を流されるような強烈さで私の脳を揺さぶる。それなのに、映像は脳に焼き付くことなくすり抜けていってしまう。……いつものことだ。
冷たく薄暗い空間。見えているはずなのに、全てが朧気にぼやけてその輪郭をはっきりと映しだしてはくれないが、湿り気を帯びた空気とざらついた感触が身体のどこかに触れている気がする。ここはどこだろう。
届くのは清かな水の音。そして時折明滅する淡く青い光。
底冷えする暗さに灯る光に安堵したのも束の間、弾けるように場面が切り替わる。そして視界いっぱいに飛び込んできたのは、鮮血。
たった今噴き上げたのだとばかりに飛沫をあげて、生温い液体が重力に従って落ちてくる。それはまるで雨のようだった。人の体を巡って、命をつなぐもの。肉を開き、骨を裂いて、そのあたたかさが、自分に向かって降りしきる。ああ、赤色が、鮮やか過ぎる。
―――気分が悪い。底なしの穴に突き落とされたように、足元が揺らいだのが分かる。これが、実際に落ちているのか、そのような気分になったのかはわからないが。
降り注いだ血飛沫の向こうに誰かの姿が見える。誰だろう。分からない。けれど、この血はその人のもので、そしてその人は、こちらに向かって何かを伝えようとしている。
分からない。見えているのに。誰が、何が、その全ての実像が、私に届かない。
今見えるものは、私に関わりがあるのか。それとも、見知らぬ誰かの記憶なのか、架空の凄惨な悲劇なのだろうか。正確に理解することも、思考することも出来ないただ「目に映すだけ」の状態で、一体何が起こるというのだろう。
けれど、何故か、ひどく苦しかった。
苦い塊を飲み込むように息を詰めれば、視界は容易く暗転した。

次に見えたのも、赤色。
けれど、先ほどの鮮やか過ぎる血潮の赤ではない。
深い思惟と、泰然と、冷徹。そして私の知らない多くのものを煮詰めたような深い深い深緋。それは一対の目であり、その時の私には恐れるほどに力強く、魅入られるほど美しく感じられた。そしてその持ち主は、深緋の双眸で私の目を見ながら手を伸ばした。応えようと、応えまいと、自分で選べばいいと、そう言って。

私は確かに、ここから始まった。
目が眩むほどに満ちて、溢れる光のなかで。

***

「……夢。」
目を開けた時に見えたのは、当然ながら自室の天井だった。窓から降り注ぐ朝日が、今日の始まりを告げている。夢を見た後の常ではあるが、頭が重い。そして、殆ど靄がかかってしまって、何を見ていたが思い出せない。起きた時に夢をしっかりと記憶することは稀だというし、あまり気にしないようにしているけれど、やはり夢を見るたびにこうも良くない心地を味わっては、とても好きにはなれそうにもない。

「でも、今日は…」

最後に見た光景だけは、今も私の記憶の中に刻まれている。
私が今に至る一番初め。何も持たない、ただ在るだけの私を抱え上げた腕の暖かさは、今も時折思い出す。
あのひとが私を見つけてくれなければ、きっと私は、こんなにも穏やかな幸福を知ることは無かっただろうから。

***


ギィン!と金物のぶつかり合う非常に重く強い音が響く。振動すらも感じ取れそうなほどのそれだが、気にするものはこの場には一人も居なかった。弾かれた衝撃で双方逆方向に振られる赤黒い金棒と鉛色の刀身はすぐに方向を変え、空気を斬り裂きながら幾度もぶつかり合う。閃光が見えるような応酬。それを行っている当人たち―――谷裂と遺駒は、息をつく暇すら惜しみながら鍛錬所でお互いの武器を手に取り向かい合っていた。
靴の底が床を擦る。軽く素早い足音と重く強い足音が、各々の隙間を縫うように一見不規則に、けれども規則的に鳴っている。一際力強く床板が踏み鳴らされたと思ったら、次の瞬間には細身の身体を囲い込むように金棒が迫っていた。それを視認するよりも前に、右膝を床のぎりぎりまで落としながら、左足を大きく前に滑らせ、素早く上体を傾けることで身体に対して横向きに持っていた大鎌を地面と垂直に振り上げる。途端金属の咆哮が耳をつんざくように突き刺さる。同時に打ち合いの攻防の時とは比べ物にならない衝撃が、刀身から柄の部分にびりびりと伝わった。長身に加えて屈強かつ頑健な体躯に、普段から鋭い目により一層の気迫を滲ませる青年――谷裂は、恐らくこの一撃で相手を仕留めるつもりだったのだろう。手合わせだろうが常に本気。なるほどまさしく彼らしい、と彼を知る誰もが思うだろう。
しかしそれに気を取られたままでは、次に自分は地に伏せることになる谷裂と相対している女性―――遺駒は理解しているのだろう、振り上げた大鎌の柄に添えていた手をスライドさせ刀身のすぐ近くを掴むと、前方に向かって滑らせた足を、円を描くように即座に後ろに引き、身体を捻りながらその大きな刃を閃かせる。使用している得物が刀などであったら、袈裟斬りと呼ばれるそれだ。
しかし、一瞬の油断すらも許さない攻めの一手であったが、遺駒が谷裂の攻撃を感知し回避したように、谷裂もまた、遺駒の動きを『攻撃の回避だけで終わるはずがない』と判断したのである。
振り下ろした金棒を即座に腕と一緒に引き、大鎌の刃の軌道上まで金棒を持ち上げて迫り来る刃を防ぐ。瞬きにも満たない間の出来事故に、受け止めたのは金棒の持ち手の部分ではあったが。
遺駒は手応えで防がれたことを理解すると、掴んだ柄に先を持ち上げ金棒の側面を滑るように再度斬撃を加えようとするが、谷裂は引き上げた肘を下げ、金棒を身体と水平になるように持ち直していた。片手で持ち上げていたそれにもう片方の手が掛かる。競り合ったままの双方ではあるが、体格も純粋な腕力も、圧倒的に谷裂のほうが上である。力同士の勝負になれば、今持ちこたえたとしても負けるのは目に見えている。
刃を押さえつける金棒に掛かる力はどんどん強くなっている。

ならば、と、一つ遺駒は息を吐いた。
そして、ぱっと両手を開いてみせる。―――大鎌の柄を手にしていた両手を、だ。

「何!?」
谷裂の口から、呻くような声が上がる。力を込めていた対象から抵抗する力が失われたことで、行き場を無くした金棒は下方に向かって振り下ろされる。その更に下、谷裂の懐で真っ白な髪が揺らめいた。相手の武器と身体の間という狭い空間ではあるが、対する谷裂は大きく、遺駒は小さい。故に小回りが効くし、誰よりも早く動ける。特性を活かすことこそ、谷裂や他の獄卒のように多少のことを体格で補えない遺駒の技能である。そしてもうひとつ。

「ふっ」
地面を強く蹴り、身体を捻って回転を加えることで加速による威力を上乗せする。狙うは身体の中心。人体の急所である。弱い部分を的確に、正確に突く。外さないことも長年の修練で得た技のひとつだ。遺駒は谷裂の鳩尾に、肘鉄による強打を加えた。
ドン!と鉄と鉄よりは柔いが、状況を見れば呼吸を詰めてしまうような厚みのある音。白兵戦では相手の攻撃を読み受け流すことを得意とする彼女の、肉体で行える渾身の攻めである。
が、

「え、っわああああ!」

一拍ほどの沈黙の後、肘を突き出した腕と、その反対の肩を掴まれた遺駒は次の瞬間には空中に投げ出されていた。足を上にしての落下、その上体制を立て直すのにも地面との距離は然程無く、遺駒は足による着地を諦め、受け身を取って鍛錬場の床に沈むこととなった。冷たく硬いそれではあるが、始終張り詰めていた緊迫感が霧散し、長い息を吐き出す。
そして少し離れた場所でごほっ、と谷裂が噎せている。攻撃は一応正確に当たっていたようだ。急所狙いの攻撃にも耐え、その上で自分を投げ飛ばした谷裂の精神、身体の剛健さには敬服せずにはいられず、じんわりと痛みを訴える背中を無視して遺駒は朗らかに笑いながら起き上がった。

「やっぱりお強いですね。谷裂さん。」
「ふん。まだまだ修練が足りんな。攻撃に転じる速さや、体格を活かした戦闘は評価するが、相手が完膚なきまでに打ち倒すまで手を緩めるな。」
「肝に命じます。」

素直に頷けば、谷裂はまた鼻を鳴らして顔を背ける。その姿をらしいなあ、と思いつつ、鍛錬場の隅に避けてあった手ぬぐいと水筒を持ち上げる。手ぬぐいは一枚だが、大きな水筒に付属しているコップはふたつである。両方に水筒の中身を注いで、近くで同じく汗を拭っている谷裂に近寄り、中身の入ったコップを手渡す。

「どうぞ。」
「悪いな。」

彼は普段の言葉尻こそ厳しいが、面倒見はいいし、礼儀正しい。ふとした時それが顔を出す。遺駒はそれに嬉しげに目を細め、谷裂に悟られる前に自分のぶんのコップに口をつけた。
慣れの滲み出るやり取りに先ほどの張り詰めた空気は当然ながら無く、雰囲気は実に穏やかである。何せ一刻ほど絶えず手合わせを繰り返していたため、ふたりともそれなりに疲労は蓄積している。それぞれ戦闘技能も武器形状も体格も異なる、荒事にも慣れた手練である。取るに足らない有象無象を蹴散らしている時とは違う疲労感と、充足感が身体を満たしている。

「玄米茶か。」
「ええ。香ばしいかおりで好きなのです。普段は暖かいものを飲むほうが多いですが、冷たくても美味しいですね。」
「ああ。」
コップの中身がすっかり空になり、汗も大分引いた頃、鍛錬場を尋ねる者が居た。引き戸を引いた音に谷裂と遺駒は揃ってそちらに視線を向ける。

「ああ、居たな。」
カーキの制服に身を包み、制帽を被ってはいないものの刀と一緒に手に持っている彼――斬島は、二人の姿を確認するとよかったとばかりに頷いた。

「斬島さん?どうかしましたか。」
「お前も鍛錬に来たか。」
「いや、俺はこれから任務だ。さっきキリカさんがどら焼きを買ってきてくれてな、早く行かないと平腹が全部食べつくす勢いだと伝えに来た。」
「まあ。」

ありありと想像できると、頬に手を当てて遺駒は微笑む、その横では呆れたように谷裂が溜息をつく。斬島は遺駒に向かい「先ほどあやこが探していたぞ。」と重ねた。それに目を瞬かせて是と頷くと、谷裂に向かって「ご指導ありがとうございました。」とひとつ頭を下げて、平腹にどら焼き食べ尽くされる前に食堂に向かうだろうと踏んだのか、いつもならよろしければと言って置いていく水筒と手ぬぐいを抱えて小走りで鍛錬場を後にした。あやこの元に向かったのだろう。
鍛錬場に残された二人のもとには沈黙が訪れた。ふと、斬島がぽつりと呟いた。

「元気なようだな。」
独り言のようにも、谷裂に向けて言ったようにも聞こえる声量。ただ思ったことを口に出しただけかもしれなかったが、その視線が鍛錬場の戸口に向けられていることから、誰のことを言っているのかは如実に伝わった。

「あいつのことか。」
「ああ。朝は少し―――疲れていたように見えてな。」
「………。」
「俺の気のせいかとも思ったが、やっぱり朝と今では違った気がしている。」
「…そうか。」
「よかったな。」
「ふん。」

それきり二人の間に会話はなく、鍛錬場を後にしたところで、別々の方向に歩き出した。汗は既に冷え、外の風はもう何も乾かさない。

遺駒は自身の内側にわだかまるものを悉く隠そうとする。そしてそれが病的に上手い。少し会話している程度のものであれば気づくことは出来ないだろう。
けれど気づいた。気づくようになった。ほんの少しの、微々たる違いではあるが。

小さく細くとも柔靭であった背中が、よりしなやかに育つのを見ていたのは、自分たちが一番長いのだから。


夢と来経