「あれが、生霊…?」
「はい。彼女の肉体はおそらくまだ生きています。」

けれど、それはきっとひどくか細く、まさしく虫の息と呼べる生命なのだと、遺駒は言う。伏せられた目からは感情を読み取ることが出来ない。長い睫毛に縁取られて、頬に影を落としている。
普段の朗らかな気配は鳴りを潜めて、淡々と言葉を紡いでいる。

「彼女は、今あの部屋に捕らわれている魂―――元は加害者であった彼らを恨んでいる。しかし肉体が疲弊しきっていた彼女は、彼らに復讐を果たすために、その情念で魂と肉体を切り離したのです。」

「そして、その怨みに引き寄せられた悪いものを取り込んで肥大化した。」

「身体は魂の容れ物。膨れ上がってしまった魂では元の器には戻れない。……そうして、彼女は怨讐を楔に悪性を取り込み続け、自我をすり減らしながら、最後には生きたまま怨霊と成るに至った。」
「どうしてそう思ったの?」

遺駒の意見を否定するわけではなく、彼女がなぜこう確信したかを聞きたくて問いかけた。その心情を機敏に察知したらしい遺駒はひとつ頷いて見せる。

「鼓動が、聞こえたから。」
鼓動。魂と命を繋ぐ音が、確かに耳に届いたのだと彼女は言う。吹けば飛ぶようなか細い生命でも。どこかでまだ息づいていると、そういう声は淡々としているのにどこか熱を熱を孕んでいるように聞こえた。

「彼女は、自分がの命がまだ尽きていないことを忘れてしまっています。……彼女の中に沈んでいた時に、彼女の記憶を『見た』からわかりました。あの人は、自分の受けた経験から、男性―――木舌さんと一緒に居た私を、自分と同じ境遇の女性なのだと思って、木舌さんから遠ざけようとしたのだと…。」

同じ制服を着て、同じ制帽を被っていて、どう見ても無関係ではないであろうおれと遺駒なのに。それもわからないほどに、あの霊は自我が擦り切れてきているということだろうか。聞けば、霊を追いかけていた最中に、霊の気配がいきなり掻き消えたように感じたのも、そこに原因があるらしい。

「生霊と死霊は同じ魂ではありますが、やはり生命ある肉体と繋がっている分生霊のほうが『個』気配が濃いのです。本当にか細い糸で繋がっているような状態の彼女の肉体が…そうですね、肉体とのつながりが濃くなった時に彼女の存在を感知できていのだと思います。彼女に巣食う悪性のほうが質量を増してしまったせいで、肉体との繋がりが希薄に…つまり死に一層近くなると、この工場内に充満している嫌な気配の方が勝り、彼女の存在そのものがかき消されてしまったのでしょうね。」
「つまり遺駒が感知していたのは死霊に近い彼女の気配じゃなく、生霊としての彼女だったってことか。」
「そのようで。分かりやすくいうと、肉体が意識を取り戻している状態の時は感知できていた。という感じです。」
「なるほど。」

大体の疑問が解決したところで、今後について話し合う。

「で、遺駒。どうしたい?」
「どうしたい、とは?とりあえずは彼女に捕らわれている魂の救出と捕縛、後に彼女の肉体の命が尽きるのを待ってから彼女を捕縛することになると思いますが。」
「うん、まあ、そうなんだけど。遺駒にはしたいことがあるんじゃないかと思って。」

視線を落としたままだった遺駒が、弾かれたように顔を上げる。その目は通常より少し見開かれていて、唇は薄く開かれている。
やっぱり、と思いつつ笑って見返せば、遺駒は困ったとでも言うように口元に手のひらを添えて溜息を溢す。

「敵いませんね。」
「長いこと一緒にいるからね。いいよ、何なら一緒に肋角さんに怒られてあげる。」
「………。」
怒った肋角さんの姿を思い浮かべたのか、口元が緊張したように真一文字に引き結ばれた。その姿がどこか幼気で、おかしくなって声を上げて笑うと。再び遺駒が溜息をつく。そしてどこか観念したように、自分の中で消化する気だったのだろう考えを話始める。

「彼女を、肉体に帰してあげたいのです。」
「肉体に?」
「はい。今彼女は、取り込んだ悪性が彼女を覆い隠す程に大きくなってしまったけれど。それを引き離せれば。彼女を肉体に戻す事が出来ます。」
静謐とした声で、遺駒は続ける。

「………彼女に、自分は邪鬼や羅刹ではない、ただの人だったことを思い出して欲しい。あの人が持っていた大事な感情は、きっと肉体に残っているから。」

彼らを恨む感情の、その前にあったものを。思い出して欲しいのです。
その言葉は、ひどく鋭利で、それでいてひどく柔かった。彼女は感情に重きをおく。館の獄卒の誰よりも。職務に忠実であり、他の獄卒と同じように一切の容赦なく亡者や魑魅魍魎を屠る。けれど、人であるかぎりその生き様には感情が伴うのだと、そう言っていた。

(どんな真に翻弄されたとしても、罪は罪。許されざる者には罰を。それは変わりません。)
(でも、善良な魂がなぜ悪しきものになったのか。その感情の一片ぐらいは、分かってあげたいのです。)

「遺駒、言っておくことがあるんだ。」

鬼でありながら、人を解そうとする。この子の清さは、ときに危うい。


***


入り口の向こうには、相変わらず底の知れない黒い闇が意思を持って蠢いている。近づけば、こちらに近いところから波たつようにざわりと揺らめいた。
部屋の壁や天井全体に纏わりついているそれは、一斉に無数の目を見開いてこちらを見る。その目はぎらぎらとあやしく光っていて、先程よりも強い敵意を写しているように見える。
横にいる木舌さんは「さっきもこんな感じだったけど、さっきより圧迫感が増してる気がするなぁ。」と呟いている。
そして、この部屋から撤退する時にには無かった呪詛のような呟きが、小さな声であるというのに、まるで鐘を鳴らしたように反響している。

『いたいいたいいたいこわいこわいこわいなんでどうして私は悪いことなんてしてないだって悪いのはあいつらだものあんな奴ら殺されたって当然なのにそれなのにどうしてわたしが悪いのねえなんで、』

ゆらり、と部屋の中央にある一段と濃い闇が揺れて、それが徐々に形を取り始める。それは人の身長ほどの大きさではあるが、丸く膨れていて人かどうかなど判別はできない。けれど、あそこにいる。彼女が。

『ねえ、どうして、』
断続的に続いていた彼女の声が途切れたのと同時に、部屋の闇は大きく唸りをあげて襲い掛かってくる。
こうなるだろうことは分かっていた。

「行くよ。遺駒。」
「はい。」

その声を合図に前に向かって走る。足元でうねる闇を蹴り払いながら、大鎌を振り上げて、鞭のようにしなる闇を根本から裂いて、薙ぎ払った反動で反対側を一閃した。切り離された闇はまた一つに収束しようと蠢いている。
ひゅう、と風を切る音が聞こえて身を屈めながら、今度は体幹を支柱しして大きく一閃。粘土の高い流動性のようなそれであるけれど、切り離されればすぐにくっ付くといいわけではないらしい。
私の薙いだ方向とは反時計回りに、斧が頭上の闇を力強く裂いて散らした。

「埒があかないから、速く彼女のところに。援護はまかせて。」
「っはい!」
「大丈夫、また沈んだって、引っ張りあげるよ。」

頼もしい言葉に背中を押されて、部屋の中央へ駆け抜ける。
丸い繭のような塊は更に膨張して、この世の全てを拒絶するよう固く厚くそこに留まっている。けれど、私が用があるのはその奥の更に奥、悪性を超えた彼女の魂そのものだ。
走りながら、大鎌の刃先を背中につくぐらいに引いた。そして塊に届くまでの距離に来た時、大きく冗談に振りぬいた。拒絶するように押し戻すように伸ばされた闇ごと、彼女の黒い殻切り裂いた。
その奥へ手を伸ばす。
一瞬、怯えたような瞳と、視線が交わる。ああ、彼女が。

***

永遠のように続く闇の中で聞こえたのは、先程も聞いた問い。

『ねえ、どうして。どうしてわたしが悪いの?』

もう告げた答えを返す。

「人を殺したからですよ。」
『どうして殺しちゃいけないの?』
「人を殺す権利なんて、この世の誰にもありはしません。」

もちろん彼らにも。ピシャリとそう言い切れば、目の前に佇む彼女の姿が鮮明になった。目は暗く淀んで、力なく項垂れている。
私を見ることなく、彼女は時折震えながら微かな声で言う。

『あいつらは殺したのに。あの子を。』
「………。」
『そう、一緒に逃げようって、絶対無理だって、怖がるばかりのわたしの手をとってくれた、あの子。あの子が死んだ、死んだ、死んだ。』

殺された。
殺された、あいつらに。
逃げようとしたら見つかって、角材で殴られて、血が止まらなくて、そのまま、死んでしまった。わたし、それが、いちばん怖くて、苦しくて、嫌だったの。
死んでほしくなかった。名前もしらない、やさしい女の子。
生きていてほしかったのに。

そういう彼女の声は、嗚咽が混じっている。
悲痛な声音は、胸の内からあふれる感情を晒していく。

『わたし、それがゆるせなくて、こいつら全員、殺してやろうっておもった。』
『ばけものになって、呪い殺してやろうって。そうおもった。』

『ねがいは叶ったわ。でも、わたしはなんなの?死んで、ばけものになって、あいつらを殺して、閉じ込めて、よかった、って思ったのに。なにも満たされなかった。あの子が戻ってくるわけでもない。わたしは、なんのために死んだの。』

今吐き出された全てが擦り切れた自我の中でも、彼女が抱え続けた本心なのだろう。
彼女に向かって手を伸ばす。ひやりとして、質量の薄い霊体に触れると、彼女の身体がびくりと震えた。

「戻りましょう。あなたの身体に。あなたはまだ死んでいません。」
彼女が目を見開く。
「帰りましょう。ほんの一握りの生命でも、あなたが、恨みと一緒に持ってこれなかった感情が、残っているはずです。」

この恨みに取り憑かれた彼女が手放せなかった嘆きが、彼女の原動力だった。
それとは別のものが、今もひそやかに息をしている彼女の身体にはある。そうじゃなければ、彼女はとっくに死んでいたのではないだろうか。そう思う。それを人は未練というのだろうか。

「少女の死を心から嘆いて、生きていて欲しかったと願ったあなたが、本当のあなたですよ。」

断ち切るように、手にした鎌を振った。


***


「遺駒!」
その声にはっと顔を上げれば、木舌さんが心配そうにこちらを見ていた。辺りを見回すと、どろどろと蠢いていた闇は、彼女という中核を失ったせいか、霧状にまで薄くなりながら漂っている。
彼女は。

「……戻ったの?」
「恐らく。」
「場所、わかる?」
「向こうの棟から、本当にか細いですが、生者の反応があります。」

急ぎましょう。きっと、もうもたない。
そう言って走りだせば、木舌さんも走り出す。
慌ただしく工場の中を走り抜ければ、辿り着いたのは元々倉庫だったのだろう一室。古くなった機材や、箱や布の積み上げられた部屋の片隅に彼女は居た。
肉はほとんど削げ落ちて、枯れ枝のように細い彼女の身体には、それでも確かに、魂が戻っている。
俺はここにいるよ、とドアを指差して言う木舌さんに頷いて、彼女に近づく。力なく横たわった身体の前に膝を付けば、彼女がうっすらと目を開けた。
きっと衰弱から朦朧としているだろう彼女にも届くようにと、言葉を紡ぐ。

「もう。大丈夫ですよ。」

落とし込まれた言葉を噛みしめるように。彼女は開かれた目を細める。

「貴方が案じていた子は天つ国へ行きました。あなたも、地獄で罪を濯いで、まっさらな魂になって、またこの世に巡るのです。」

先ほど、彼女の魂を引き剥がすために件の部屋に向かう前に木舌さんに伝えられたこと。集合時間近くになっても戻らない私に、亡者を連行しながら報告と人員確保のために獄都に戻り、斬島さんたちに報告をお願いしてここに戻ってすぐに、肋角さんに事の次第を伝えた斬島さんから連絡が入ったそうだ。

この任務は、天国に送られた魂から訴えがあった任務だと。
たすけてあげて、と訴える少女の霊が居たのだと。天国から巡り巡って来た任務。上でも下でもあまり重要視をされていなかったその訴えを拾い上げたのが特務室だったらしい。
その少女は、恐らく。

掠れた声が、聞こえた。間違いなく、目の前の彼女が発した声だ。
その声を聞き取ろうと身を屈める。

「し、ん、ぱい、だった…ちゃんと、ねむれた、の、か、って。」

泣き出しそうに細められた目は、それでも涙を流すことは出来ない。

「あん、なに、ひどい、かなしい、さいごだった、から。よか、った…わたし、みたいに。ならな、かった、のね…。」

よかった、とそう言う彼女は、重たいもの吐き出したように満足気だった。
彼女は、恨みに満ちた自分を正当化する言葉を吐いても、どこかで穢れたものだと感じていたのだろう。けれど、彼女が生きたまま悪霊に成るきっかけになった「少女の死」への感情を置いたままでは動けなかった。だからそれは肉体に置いてはいけなかったのだ。

少女の魂の行く末を案じ続けた心だけは、身体に残していた。彼女がどうあっても恨みに汚れてはいけないと、そう思った心だけは。

彼女がゆっくりと瞼を閉じる。
唇から長い呼吸が抜けていった。


***

その後、すっかり存在を隅に追いやっていた男性の亡者達も、応援に駆けつけた斬島さんと谷裂さんが捕縛していた。長い時間悪性の闇に捕らわれていたせいで、ひどく恐慌状態だったらしいが、そんなものは関係ないと谷裂さんがさっさと縛り上げていて、その手際に場違いにも感心してしまった。

私の姿を視認した瞬間ものすごい剣幕でのお叱りが飛んできたけれど。
油断しているからこういうことになる、どんな任務でも気を抜くな、そういい連ねていく谷裂さんは、一通り言うべきことを言い終えた後に、じろりとこちらを見ながら「怪我はないな。」と言った。それに「はい。」と返事を返すと。そのやりとりを横で見ていた木舌さんが「もー谷裂ー!そういうのは一番最初に言うもんでしょー。」と笑いながら谷裂さんの背中を叩くものだから、二度目の怒号が飛んだのは言うまでもない。
斬島さんはいつもの真面目を体現したような顔で「無事で何よりだ。」と言ってくれた。大分心配をかけてしまったようで申し訳ない。

任務の報告に行った肋角さんの執務室でも「無事ならいい。が、次はこのようなことが無いように。」とお言葉を頂き。重ねて情けないやら恥ずかしいやらで今日は速やかに食事とお風呂と武器の手入れと就寝準備を終えて後の時間は反省に充てたい。
そう思ったのだけれど。

「遺駒、今日は色々あったし。一緒に呑もうよ。」
そう言って酒瓶とグラスをふたつ携えてやってきた木舌さんに、お断りの文句を紡げるはずもなく。
「お付き合いします。」と、グラスをひとつ受け取った。


どんなまことをお持ちでも し