▼注意:気分の良くない犯罪の描写があります。


地獄だ。
そう思った。

仕事からの帰り道、突然視界と口元を覆われ、連れてこられたのは錆と埃と煙草の匂いのする見知らぬ場所で。その時もいたく混乱していたと思うけれど、その後に比べたらその混乱している間すら安息の時だったと思える。
無理矢理身体を暴かれ、下卑た言葉を浴びせられ、「遊び」と称して真っ当ではないことを数えきれないほど押し付けられ、人としての尊厳の何もかもを踏みにじられた。抵抗すれば、歯の根が噛みあわなくなるほど殴られる。気まぐれに水を与えられたり、残飯を与えられたりしたけれど、それで満たされるものなど何もない。
ここを地獄と呼ばなくて、なんと呼ぶのだろう。

そんな時間を過ごし、気力なんてとうに消え失せて、ただ無為に横たわり嬲られることだけを繰り返していたある日。いつもと違う日がやってきた。

見知らぬ女の子が連れて来られたのだ。
学生服を来た、少女めいた幼さの抜け始めたぐらいの女の子だ。

この子も、わたしと同じ目にあうのか。そう脳裏に浮かんだ時、仄暗い感情が湧き上がったのを覚えている。
同じ境遇の人がいれば、わたしは満たされるのかしら。傷を舐め合う人がいれば、わたしは安心するのかしら。と。
人として最低なことを、ごく自然に考えたことに、ぞくりとした。わたしはおかしくなってしまったんだ。きっと。
けれどそれも束の間のこと。
響く叫び、笑い声、嫌だ嫌だと繰り返す声が、段々弱々しいすすり泣きに変るのを部屋の隅で身をすくませながら聞いていた。頭のなかで警鐘を打ち鳴らされているように頭痛がして、嗚咽が溢れる。
どうして満たされるなんて思ったのか、安心するなんて思ったのか。怖い。怖い。怖い怖い。彼女の身に起きる全てが過去の自分と重なって、激しい恐怖が全身に駆け巡った。嫌だ、もうやめて、その子も、私も、お前たちに踏みにじられる謂れはないじゃないか!

結局、私は一言も発することが出来ないまま、気を失っていた。

次に目を覚ました時、あの女の子がすぐ近くに居たことに驚いた。
女の子は泣きはらした目をして、身体の至る所に痣をつくりながらも、骨と皮ばかりになった私の肩に震える手のひらを置いて、掠れた声で言った。「おねえさん、」と。
この時だけ、私は人並みに戻ったような気がした。
それなのに、あの子は。

***

身体が、重い。
全身が泥のようで、頭がぼうっとする。
血管から骨に至るまでの全てが膨張してしまったみたいだ。どうしてかな。わたし、死んだのに。幽霊なのに。
重い身体を動かしながら、まだ見つかっていないあの男を探す。殺したのに。あの男は逃げた。逃がさない。逃がさない。私が味わった以上の苦しみを永遠に与え続けるために私は今日もあの男を探す。でも身体が重いの。うまく動かない。どうしてかな。
そんな時、だれも立ち入らなかったこの場所に誰かが入ってきた。

緑の軍服みたいな服を着た、男。と、真っ白な髪の女の子。
―――女の子。

ざわりと、もう動いていないはずの心臓が激しく鳴ったような気がした。
助けなきゃ、助けなきゃ、今度こそ、今度こそ。

あれ、でも、私は、何を助けたいと、思っていたんだっけ?

***


光が収束していくのを感じると、視界に黒が広がった。
今のは彼女の記憶だろうか。やっぱり、このひとは。
確信をもって言った一言ではあったが、それは彼女の最奥にあるものを揺さぶったらしい。その隙間から溢れでたのが今の記憶なのだろう。

「でも、私はあなたを捕まえに来た獄卒です。」
これを言うのは危険だと承知のうえだ。身動きの取れない今の状態では、自身の敵だと認識されればこのまま捻り潰されかねない。まあ、それでも死なないのだけれど。
『ごくそつ?』
「そう。地獄の鬼。裁かれるべき罪を犯した亡者を地獄に送る役目があります。」

罪。その言葉に周りの闇が揺れる。困惑、だろうか。
「大いに傷つけられたのでしょう。大いに苦しんだのでしょう。けれど貴方は許されないことをしました。人を殺したのです。それが、あなたの裁かれるべき罪。」

罰を与えられなければなりません。
努めて淡々とした口調で、闇に向かって言葉を紡げば、揺れていたそれは一層大きくわなないた。

『どうして。どうしてどうして。酷いことをしたのはあいつらでしょ。なんで私が悪いの、だって、あいつらが悪いのに、恨まれたって、殺されたってしかたのないことばっかりしたのに、』

彼女の言葉が響く度に、今私が浸されている場所にじわじわと熱がこもってきたような気がする。彼女の感情の昂ぶりを示しているのか、怒りで気が明瞭になっているのか、先程よりも淀みなく言葉が飛んでくる。

『さんざんわたしを踏みつけにしたのに、なんで、あいつら、殺しちゃいけないの!』

今にも破裂しそうなほどの怒気が充満する。膨れ上がったそれは、あるいは一瞬で私を吹き飛ばすかもしれない。それほどに濃密な気配。
肺が圧迫される。苦しい。けれど、言わねばならない。

「彼らの罪を裁くのは、あなたではないから。」

「彼らのしたことはたしかに罪悪です。けれどそれを理由にあなたが行った行為もまた、罪。それは、交わっていても、全く別のものなのですよ。」

「彼らも、貴方も、裁かれねばならぬのです。」

理解して欲しい。理解して、己の罪を省みて欲しい。けれどそれは感情をもつものにはひどく難しいことだ。奪われた身で、それでも奪ってはいけないと言われるのに理不尽さを覚えるだろう。それでも、自分には罪があるのだと、罪は灌がねばならないのだと。分かって欲しい。
……こんなことを思っていては「お前は妙なところで甘い。」とまた谷裂さんに言われてしまいそうだと思う。
時間も距離も失われたような黒のなかでは、記憶の中の「家族」の言葉もどこか遠い。
そんなことを脳裏にうかべていると、数秒か数十秒か、動きを止めていた彼女が再びざわめきだす。
怒り狂うか、嘆き叫ぶか、そう考えて身を固くした時、ざわめきの奥で何かが―――いや、聞き覚えのある音が、した。
どくん、と。
「え?」

「遺駒!!!!」
波及のように届いた声にはっとする。ああ、彼だ。安心に力の抜けてしまいそうな身体を叱咤し、狭すぎる隙間に押しこむように、声が響いた方に手を伸ばす。押し返されようとも、闇をかき分けるようにして。

「木舌さん!」

腹の底から声を上げれば、伸ばした手の先を何かが掠めた。そう感じた瞬間に、強い力で私は永遠のような黒い沼から引きずり出される。
勢いのままに倒れこんだ先は暖かく、けれどどれくらいぶりにかまともに吸い込んだ空気はひんやりとしていた。は、と詰まったような息を漏らせば、大きな手のひらが頬にかかって、上を向かされる。

「遺駒!大丈夫!?」
花緑青が心配げに私の目を見返す。慣れ親しんだ色。慣れ親しんだ声。広い胸板に触れた手にはじんわりと暖かさが伝わって、それが私を落ち着かせた。
「だい、じょうぶです。木舌さん。」
ご心配おかけしました。そう言って笑みを浮かべれば、漸く安心したように目を細めて、木舌さんも笑顔を浮かべる。
「怪我してない?」
「はい。」
「さっき一瞬亡者の力が弱まったから、今なら、と思ったけど。届いてよかった。」

頬に触れたままの手が、確かめるようにそこを撫でて、離れた。
「でも、」と木舌さんは続ける。次いで、地響きのように部屋全体が揺れ動いた。見渡せば、先ほどまで私の浸かっていた闇が、部屋全体に蔓延っている。

「一息つく余裕はないね。ただの亡者にしてはずいぶん大きくなってる。」
「………。」

そう言いながら、木舌さんは私に大鎌を手渡す。拾っていてくれたようだ。お礼を言いながら、部屋の全体に視線を巡らせば、ひどくか細くなっているが、彼女とは別の魂が一箇所にまとめられて、闇に沈められている。
あれが恐らく、彼女が殺した人々の魂だろう。

「向こうに魂が複数見えます。」
「え?ああ…。」
「彼らも、連行しなければなりませんね。」
「そうだね。」
「けど、一旦引きましょう。」
「ええ?」

捕縛対象を目の前にして引く、と言い出した私に木舌さんは目を丸くする。「お話があります。」と言えば一拍の間を置いて「わかった。」と返ってくる。
耐えかねたように私達目掛けて振り上げられた何本もの黒い手を避けながら、揃って走り出す。同じ轍を二度踏むわけにはいかないと、愛用の鎌で退路を切り開いていく。木舌さんも同様だ。
破壊された扉をくぐれば、蠢く闇は追っては来なかった。
またどくん、と音が聞こえた。

***

集合場所にしていた所まで戻ってくると、私も木舌さんも同時に大きく息を吐いた。それに気づいてお互い笑う。けれど私は姿勢を正して頭を下げる。
「改めて、ご心配おかけして申し訳ありませんでした。助けに来てくれて、ありがとうございます。」
「いいよ。遺駒が無事なら。」
そうあっさりと言って、先ほど頬を撫ぜたのと同じ手で私の頭を撫でる。この人はいつだってこうだなあ、と思えば笑いが漏れでた。

「それで、さっき言ってた話って?」
首を傾げて木舌さんは訪ねてくる。大柄な男性のそういう仕草は、なんだかひどくかわいらしい、と思いつつ、先ほど確信した事実と伝える。


「亡者…いえ、彼女は、まだ生きています。」

けれど、彼女はそれを分かっていない。
花緑青が溢れんばかりに見開かれる。私も先ほど気がついたのだ。一回目は疑問。二回目は確信。
彼女は、まだ『亡者』ではない。

『生者』であり、『生霊』であると。


どんなまことをお持ちでも さん