生暖かい闇が私を沈めていく。
人肌のようなその温度の中では何かが絶えず蠢き、虫の羽音のような、爪で壁を引っかくような音が絶えず木霊している。
平時に聞けば耳障りなそれは、まるで心臓の柔いところを裂いて悲しみを直に流し込まれるようで、誰かの慟哭のように聞こえた。

あなたはだれだと体を動かそうとしても、強い力によって阻まれ、指先ひとつ満足に動かせない。けれど、その力が私の体を握りつぶすことはない。ただただ強く懇願のように押しとどめるだけだ。

それは、何かを守ろうとする腕の強さに似ている。


***

おれは自分でも珍しいと思うぐらいに苛立っていた。
普段からのんき者だとか脳天気だとか言われているだけあって、大概のことはあまり気にしないし、怒りに燃えることはあまりない。まあ、今も怒りを感じているというよりは、ただ虫の居所が悪いという話だけれど。
ただ、理由もなくそういう常態になっている訳ではないのだ。

『だから俺は殺されたんだよ!あの女に!』

先ほどからこうして喚き散らす、この亡者が原因だった。
今時の若者の中でも、かなり素行の悪い部類にはいるのではないかという外見、淀んだ目に、大きく開かれた口から除く歯はおよそ不健康に黄ばんで、所々黒くぼろぼろになっている。
特に隠すこともせず、ため息を吐く。なんと言っても、聞くに耐えない演説を大音量で聞いているのだから、これくらいは許してほしい。

遺駒と集合時間を決めて別れ、彼女とは別の棟に足を踏み入れてから十分ほど経ったところでところで、この男は現れた。曰く、ずっとこの棟の奥に隠れて居たのだという。どうしてと問えば『あっちにはあの女が居る』と歯の根すら震えるような恐怖を湛えた表情でそう言った。
けれど、正直に言えば、そこから聞き出した事情は目に余るどころではない行為の数々の自白だった。

『確かに結構無理矢理つれてきたし、色々遊んだり、クスリ飲ませたりしたけどよォ…殺されることに比べたらどうってことないだろ!?なあ!』
「………。」

先ほどからこのつまらない言い分を何度聞いただろう。自己弁護を多大に含んで、前後も入れ替わって支離滅裂なそれを聞いているこちらの身にもなって欲しいところだ。そんな中で、おれはいつも通りの笑顔で手を振って分かれた遺駒の姿をぼんやりと脳裏に描いていた。

そして思う。遺駒がここに居なくてよかった、と。
彼女は獄卒としてのあり方をきちんと理解しているし、それに恥じない行動を心がけている。しなやかな子だ。こんな男の言葉で揺さぶられる精神ではないだろう。そもそもこの男を連行した時点で大体の経緯や情報は知ることとなるのだから、知らずに通るわけはない。
けれどこの男に、あるいはこの男たちに弄ばれ嬲られて最終的に命を落としたのだろう女の子は、まず間違いなく怨霊になっている。そして恨みを抱えて殺人という罪を犯した。そのことに彼女は胸を痛めるだろう。その上で、この男の醜悪な言い分を、彼女に聞かせる気にはならなかった。
どこか上の空なおれの空気を感じ取ったのか、男はいきり立った。

『大体あいつは勝手に死んだんだ!いつの間にか勝手に死んで、幽霊になって、俺たちを殺したんだよ!俺のしたことなんてそれでチャラだろ!?』
「それはちがうなあ。」

途中からずっと黙っていたおれがいきなり声を発したことに驚いたのか、男が目を見開いて声を詰まらせた。
「他人の犯した罪で、きみの罪がなくなるわけないだろう?」
掴んだ男の腕にほんの少し力を入れると、みし、と骨が軋むような音がする。ひい、と引きつった声を上げて、男が後ずさろうとした。けれど逃がすわけがない。

「人の世ではどうか知らないけどね。きみの罪はきみの罪、きみを殺した子には、また別の罪がある。」

「誰かの罪が自分の罪を塗りつぶしてくれるなんて、そんなこと、ないよ。」

反省のない亡者には特に、情状酌量の余地もなく辛く重たい呵責が貸せられるだろうね。そう言えば、今頃になって今目の目前にいるおれが決して味方ではないと理解したのか足先から竦んだように震え上がって、
捕まれた腕に逃げ出すことも諦め消沈した。

男の他にも数人、祟り殺された人間がいたらしい。
これに関して男は『食われた』と言った。取り込まれたか、それとも拘束されているかは分からないが、まだ回収するべき魂があるらしいことは分かった。案外骨が折れるかもしれないなあ、と思いながら、集合時間が迫っていることを思い、元の場所に戻ることにした。被害者の亡者と加害者の亡者を合わせると人手が足りないかもしれない。彼らは人の世でこそ加害者と被害者だけれど、魂の上ではどちらも罪人なのだから。

「……遅いねえ…。」
集合時間になっても遺駒が現れない。これはとても珍しい。いつもはおれより先に来ているか、血塗れだったりどこか欠損を抱えても、時間ぎりぎりには姿をあらわすのに。
ポケットから取り出した懐中時計を見れば、集合時刻から七分が過ぎている。遺駒が現れる様子はない。
身動きが出来ない状況かもしれない。死なないとはいえあまり長考するのはよくない。
もしも、などないと分かっていながら遺駒の安否が気にかかる。とりあえずこの男を連れたまま彼女を探しに行く訳にもいかないと、まだ十五分経たないが、連行しつつ人員確保をしてこようと、おれはその場に開けた穴を潜った。

***

亡者を引き渡した後、丁度館の入り口に居た任務帰りらしい斬島と谷裂に事情を話し、肋角さんに現状を伝えることと数人応援に来て欲しいことを伝えた。話す内にどんどん剣呑さを帯びながら研ぎ澄まされていく二人の表情を見ながら「頼んだよ。」と言ってすぐさまおれはきびすを返した。背中に「わかった。」という斬島の声と谷裂のため息が投げかけられる。わかっているよ、俺も遺駒も揃って迂闊だった。けど、これはきっとおれと彼女が共に行動していたら起こり得なかったことなんだろう。遺駒が何かに襲われたのなら、それはあの男を殺したという亡者だろうか。なんで遺駒を狙った?男であるおれと比べると非力そうに見えるから?
おそらく、おれたちが別れたことが原因なんだ。
けれどその境目はどこにあるというのだろう。

再び開けた穴を通って、薄暗い薄暗い工場の中に足を踏み入れる。景色は初めて足を踏み入れた時から特に変化はない。
ただ踏み入れるべき場所は分かっているのだから、迷わず遺駒の向かった棟に向かう。コンクリートを踏みしめる音が、常より急いているのが分かる。途中の扉を開けて中を確認しながらどんどん奥に進み、突き当たりに部屋の扉をあけると、工場内の油や錆の臭いとは違うそれが鼻についた。
一歩踏み入れれば、荒れた部屋の中が否が応にも目に入る。ぐるりと全体を見回して、なるほど、と思う。
遺駒はここに来ただろう。そんな確信があった。
そしてその確信をを裏付けるものが、部屋の奥に進んだところで視界に入る。

「これ、遺駒の、」
床に無造作に投げ出されて大鎌は、彼女の相棒であり、大事にしている仕事道具だ。何の理由もなく、放り出してどこかに行くことはないだろう。
この場で、なにかあったんだ。どろりと湿り気を帯びた嫌な気配の残滓を感じたような気がして。大鎌の落ちていた場所のすぐ側にある扉に目を向ける。
「………。」
黙ってドアノブに手をかけると、途端に向こう側から、ギギギ、と扉を爪で大きく引っ掻くような音が響いてきた。
来るな、と言っているようだ。

「でも、そういうわけにはいかないよねえ。」

うちお嬢さんも返して貰わないと。そう小さく呟いて、ドアノブから手を離す。次の瞬間には大きく斧を振りかぶり、目の前の鉄扉にめり込ませていた。
斧の刃先がめり込んだと思ったのも束の間、扉は爆ぜるような音を立てて拉げ、後方に吹き飛んでいく。いつ攻撃をされてもいいように気を張りながら、部屋の中に飛び込む。部屋の中は小さな冷却用プールがいくつかあそれもが汚水に満たされ真っ黒だった。その中でも一等異質な『黒』を溢れさせる場所があった。
そう広くもない部屋全体を靄のように液体のように蠢くものは、無数の目を見開き、ぎらりとおれを見返してくる。恐らくはおれや遺駒が探していた亡者だろう。それが収束するように管を伸ばしている一番奥のプール。汚水とは違う 『黒』が、ざわざわと這い回り蠢きながら入れ物を満たしている。
目視した限りでは、遺駒の姿を見つけることは出来ない。が、汚水の中に投げ込まれているとも考えづらい。その程度で死ぬような生き物ではないからだ。

「悪いけど、うちのこは返してもらうよ!」

部屋の奥に向かって駆け出せば、部屋を取り囲んでいた『黒』は地響きのようなうめき声を上げて無数の手を伸ばしてくる。それを斧で振り払いながら辿りついたプールに迷うことなく腕を突き入れる。蠢く黒が、おれの手を押し返そうとするように揺れる。

「遺駒!」

届けと願いながら、届くと信じて両腕に力を込めた。

***


私を呼ぶ声がする。
その声が聞こえた途端、軋んだ音は一層大きさを増し、怒号のようにざわめいている。体は相変わらず動かせず、もどかしさに胸がふつふつと煮えたぎる。離せと言わんばかりに身を捩ろうとすれば、ずっと鼓膜を震わせていた音と一緒に、確かな声が聞こえてくる。

『だめよ、隠さなくちゃ、もっと、奥に、深くに、』

この声は、扉の前で聞いた声だと理解する。動かし辛いながらも口を動かし、はなして、となんとか声を振り絞る。私を押さえ込む力が強くなる。

『だめよ、だめよ、ここにいるの』
「どうして」
『苦しいおもいをするわ、痛いおもいをするわ、もういや、もういやよ、』

『壊れるの、なによりも、こころが』

―――ひとつ。思ったことがある。
恐怖を反芻するように、だめ、いや、と口にするこの声の主は私を捕まえてから今この時まで、私に危害を加えようとしない。
自身を捕まえようと追ってくる獄卒に対して、逃げたり敵だと認識し襲いかかってくる亡者は多い。けれど、この亡者はそのどちらでもない。

分かった。私に届くこの声や音が、なぜ怨嗟や憤懣でないのか。
恐ろしいと、悲しいと、こんなにも叫んでいるのに、怨霊になるほどに恨みを重ねただろうに、どうして私を敵と見なさないのか。


「あなたは、私を守ろうとしているのですね。」


どんなまことをお持ちでも に